渡久山朝章著『南の巌の果までー沖縄学徒兵の記ー』(文教図書)は1978年1月に刊行されている。その年は沖縄戦から33年目にあたり、沖縄戦の死者の終わり(ウワイ)スーコー=三十三回忌にあたっていた。
沖縄戦当時、著者は沖縄師範学校の生徒だったが、防衛召集によって球一○一五八第二野戦築城隊付鉄血勤皇師範隊の一員となり、第三二軍司令部壕の壕掘り作業をにない、首里から撤退後は南部戦線の戦闘に参加することになる。本書は、著者のその沖縄戦体験を綴ったものである。
「はじめに」で著者はこう記している。
〈私の学友たちが眠る沖縄師範健児の塔の傍に誰が建てたか知れない簡単な作りの歌碑がある。それには今は亡き野田校長先生の作といわれる次の一首が刻まれている。
南の巌の果てまで 守り来て
散りにし龍の子 雲湧き昇る
この歌の上の句の一部をこの従軍記の題名とさせて頂いたが、此処で言う龍の子とは私たち沖縄師範学校の生徒のことである。
首里(那覇市東方の丘の上の城下町)龍潭池畔に学校があり、寮は龍潭寮と呼ばれ自分たちのことを龍潭健児と言っていた。
共に砲弾煙雨下をさまよい、そして散って行った学友たちの姿が目に浮かぶ。
三十三回忌を迎え、心から彼らの御冥福を祈り、この書を謹んで彼らと沖縄戦で散った総べての御霊前に捧げる〉(P5)。
1945年4月1日に米軍は沖縄島中部西海岸に上陸する。その時点でも首里城地下の第32軍司令部壕は完成していなかった。渡久山氏ら〈野戦築城隊第二中隊はこの未完成の部分を仕上げるべく、野戦築城隊の兵士たちと共に昼夜交代の突貫作業に入った〉(P32)。作業現場は〈金城町の斜面原野へ出る第六坑道口〉(P33)であったが、そこには兵士や師範学校の生徒らに混じって作業をする女性たちの姿もあった。渡久山氏はその女性たちとの交流や作業の様子、上官からふるわれた暴力などを記している。第32軍司令部壕の説明板問題を考える資料として、以下に紹介したい。原文のふりがなは( )で示した。P69〜70の〈肉体労働〉には原文では傍点が付されている。
〈夜勤の穴掘りに駆り出されて、淡くともる裸電球の光を頼りに壕の奥の方へと進むと、何時ものように十字鍬を打ち込む音が聞こえて来る。チョロチョロ流れる湧水をジャブジャブ音を立てながら行き当たる所が壕掘りの現場である。そこに予期する光景とは、何時も乍ら泥で汚れた一本の褌だけを身に纏い、十字鍬を振るう兵士の姿である。すこし坑道の折れた所を通り、いきなり目に飛び込んできた光景には思わず我が目を疑った。見馴れない光景に逢着したのである。十字鍬を振るう裸の兵隊たちの他に、新しい防暑服を着けた数名が円匙を使っている。
女たちではないか!私たちは思わず顔を見合わせた。淡い光を浴び、馴れない手付で円匙を使うその人たちは正しく女である。
陣地構築の遅れで、とうとう女まで駆り出された。それも沖縄の軍属の女ではない。裸電球の淡い光でもそれと分かる、防暑服の半袴から抜け出した真白い透きとおるような大和女(やまといなぐ)の太腿が目にまぶしい。一瞬、心臓がドキドキと早鐘を打つ。一月以上も若い異性を見ない十六、七歳の少年たちにはこれは余りにも刺激が強すぎたのだ〉(P68)。
〈これは目の遣り場に困るとかそんなものではない。まったく呆然と見とれているのである。「そんな阿女(あま)に見とれていると下士官のビンタが飛ぶでえ」と兵隊たちに言われてハッと我にかえった。
沖縄本島に皇軍の大挙駐屯以来、駐屯地近くには必ず慰安婦なるものを配置し、軍人慰安所と墨痕淋漓大書されていた。
兵隊間では俗にピー屋と呼ばれ、その門前常に市をなし、兵隊たちが数十名も列を作っている姿は、実に滑稽をも通り越し、盛りの付いた雄の性のうら悲しさを見る思いであった。同じ雄のそれでも幾多の雌を抱えハーレムで君臨しているオットセイの方がどんなに雄々しく、晴れ晴れと見えることか。賢い筈の人間のそれが、それは自発的な売春婦も含めて総べてこの類のものがジメジメとしており、侘れ果てて見えるのは何としたことだろう。(もっともこれは私の聞いたり読んだりした範囲を出ないけれども)
さて、門の表側で下半身の欲求に引き摺られて長い列を我慢しているのに比べて、その門の内側に囲われていた人たちは、更に如何の様な日々を過ごしていたのであろうか。
そして今、追いつめられて地に潜り、兵や私たちと同様、その身の置き所にも苦しみ、揚句は男同様の肉体労働が課されているのである。
兵たちは口々に、円匙を使う時「腰の入れ方、使い方が悪い」の「股の開き方、閉め方が足りない」のと卑猥な言葉を投げかける。口をつぐみ、悲痛な面持ちをした彼女たちは慣れない手付きで円匙を使っている。
いろいろな不幸な境遇で暗い過去を背負い込んでこの道に落ち、そして「お国のため」と異郷にまで駆り出され、兵たちの性の排泄の対象としてその身を投げ出したことであろう。
しかし、今やその兵たちとまったく同じ運命に身を委ね、同じ境遇に置かれたのである。無言で肉体労働に従事する彼女たちの胸の中は、むしろ、同じ「お国のため」なら、今の方が良いと思ってジッと労苦に堪えているのであろうか。
或は兵の一人が自棄、自嘲気味に「負けが続いて来ると女もアナを掘るのか」と言った悲哀感、絶望感にとりつかれていたのかも知れない。
こうして兵が掘り、学徒兵と彼女たちが円匙で土を抄い、学徒兵がトロッコで捨てに行くという作業が繰り返されていった〉(P69〜70)。
〈とはいえ、私たちと接する彼女たちは、それはまるで弟にでも対するようなものであった。こうして奈良県から来たという上田さん(この人はその中でも上の年輩と思われたが、殆ど無口で悲しそうな目をしていた)は、時々こっそり乾麺麭の金平糖をしのばせて来ることがあった。それは一蓮托生というか、同じ運命と境遇に、共に相憐れむ心が生じたのだろうか。はたまた彼女たちの生得の母性本能が無意識裡にこの年少者たちへ働いたのだろうか。
彼女たちの宿泊所は知らないが(軍司令部洞窟内であることは彼女たちの話しぶりから察せられるのだが)、此処に来るまでには絶えず兵隊たちの淫らな視線とことばを浴びるとのことであった。
事実、用足しに出かける彼女たちを追いかけるように厠へ出かける兵隊さえいた。
便所とはいっても壕口の近くの小川の土提斜面に木を組み、板を若干敷き、隔ては空の叺を吊り下げただけのものに過ぎない。叺を押せばもうそこには隣との隔てはないし、第一、小川の反対側の低い土堤からは、黄金物の垂れ流しの上、少しばかりの板に足をかけ、しゃがんだ下半身は丸見えであった筈だ。
彼女たちが作業に来るようになってから、下士官の見回りの度数が頻繁になって来た。陣地構築進捗状況視察ということが名目であるが、勿論、お目当ては別にあることは誰の目にも明らかだ。
折も折、休憩中にこの見回りの連中がやってきた。しかも将校を先頭に……。
疲労と寒さで岩陰の小鳥よろしく寄り合い、空虚な頭で瞑目している者たちには、咄嗟にその場を取り繕う元気と余裕がない。
状況を目撃した中尉は怒髪天をつかんばかりに憤激した。
「コラア、貴様らあ、学生の分際で女とイチャツキおって……」長靴で泥水を撥ね上げ乍ら近づき「立てッ。この様な弛んだ気持で戦が出来るか。風紀紊乱しとる。貴様らの腐った精神を叩き直してやる。足を踏ん張れ」
ガーンと一発頬に喰らうとグラッとよろめき、一瞬身体の中で失った重心を取り戻そうとして乱れた足がドタドタと勝手に飛び出し、それに運ばれて壕壁に激突する。引き戻されると今度は反対側の耳のあたりにグヮーンと鉄拳を受ける。雷鳴と雷光が同時に襲い瞬間真暗になる。激しい痛みは耳か顳?か判然としない。続けて右に左にピシッピシッと乱れ飛ぶ。頭にガンガン響き、クラクラと目が眩む。
やがて一列横隊に並んだ次の学友に移って行く。進むにつれ鉄拳の間に怒声が多く混じって来る。「糞っ」「貴様等」と激しい息使いに乗って憎々し気に喚きながら打擲を続けて行く。それは打ち疲れと自分の手の痛さに堪えているように思われたし、疲れと手の痛さで意に委せない鬱憤晴らしを口で罵詈することによって補っているようにも見えた。異常なまでの怒気の激しさは軍規粛正にしては常軌を逸しているような気がした。そこに燃える激情を嫉妬の情念と見たのは、私の僻目であっただろうか。
その事があって以来、彼女たちとは絶えず或程度の距離を保つように言われ、言葉を交わすことも禁じられた。その為、仕事の上でも彼女たちとは別にされ、私たちは兵隊たちと共に掘ることと、トロッコを押す方に就くことになったのである。
結果はすぐに現れた。女の人たちだけの積み込みではどうにもならないのである。私たちは時々掘る手を休め、彼女たちに一事手を引いてもらい、代わりに積み込みをしなければならないのだ。こうしてそれぞれが三様に気不味い思いで非能率的に作業は続けられた〉(P71〜72)。