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Channel: 海鳴りの島から
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資料:琉球新報連載「首里城地下の沖縄戦」2

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  首里城地下にあった第32軍司令部壕に朝鮮人の女性や辻町の女性がいたことが、連載の第9回で取り上げられている。以下に紹介したい。

「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕 第9回」1992年6月25日付琉球新報掲載
〈司令部と女性/用済めば見捨てられ/激戦地さまよう
 野原広信さん(六三)は「朝鮮ピー」と呼ばれていた女性らが一升ビンに詰まった玄米を棒でつついている姿を目撃している。「ピー」と言ってからかう日本兵にくってかかる女性を見た人もいる。
 連日連夜の司令部壕掘り作業でへとへとになっている野原さんらに彼女らは「仕事、ゆっくりしなさい」と優しく声をかけた。中には、かまぼこの缶詰を差し出した女性もいた。
 「郷里にいる弟を思い出したのだろうか。とてもありがたくて、四、五人で分けて大事に食べた。あの時の親切が忘れられない」
 一方、諸見守康さん(六三)は辻町の女性たちが参謀らの部屋にいるという話を聞いたことがある。「時々見かけた。香水のにおいがして、もんぺ姿ではあったがきれいな服を着ていた。戦争中にこんなきれいな人が…」と驚いた。
 蒸し暑い壕内。「昼食時に中将の周りに女性が集まり、扇をあおいでいた」と上原誠徳さん(六三)は証言する。「兵は住民を守るはずなのに、自分の島は自分で守れと言って日本兵は沖縄人をばかにしていた」。軍の指揮官の姿を見て、怒りがこみ上げてきた。
 渡久山朝章さん(六三)は、ふんどし姿の兵隊たちの横で、シャベルを使って土をすくう女性数人の姿を見てぼう然とした。奈良県から来たという女性もいた。兵隊に体に触れられ、好色な視線とひわいな言葉にさらされながらも、無口で重労働に耐えていたという。
 三二軍司令部の「日々命令綴」の壕内の配置図に「女雇用人」と記された場所がある。この文書には「女子雇用人入浴時間割出表」があり、女性の入浴時間を細かく定めている。米軍作成地図は、第五坑道口から八十五メートル入った地点に女性の部屋があったことを記録。日本人女性十二人。沖縄女性十人と記している。
 いよいよ司令部壕を放棄し本島南部へ移動する晩、高良吉雄さん(六四)は朝鮮人女性に「私のからだをあなたにあげますから、一緒に連れて行って」と声を掛けられた。連れて行くわけにはいかなかったが、その女性の必死の懇願を断りきれなかった。とっさに「七時半ごろ撤退するから」と自分の部隊の撤退時間を偽って、その場を切り抜けた。
 司令部壕放棄後、壕内の朝鮮人女性らの足どりはさだかでない。砲弾にさらされながら、雨でぬかるんだ南部の激戦地をさまよう朝鮮人女性らの姿を野原広信さんらが確認している。(第32軍司令部壕取材班)〉。

 連載の第25回では、首里城周辺にあった第三二軍司令部の直轄部隊、第五砲兵軍司令部の壕にも朝鮮人慰安婦がいたことが記されている。関連するので紹介したい。

「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕 第25回」1992年7月13日付琉球新報掲載。
〈第5砲兵壕/工業学生の9割犠牲に/将校のそばには慰安婦
 第三二軍司令部の直轄部隊、第五砲兵軍司令部の壕は、現在の首里城公園総合休憩所の南側斜面に造られた。首里城周辺には第三二軍司令部壕のほかにも、日本軍の陣地が構築されており、一帯は軍事要さいの様相を呈していた。
 第五砲兵軍司令部には沖縄県立工業学校の生徒八十六人が鉄血勤皇工業学校隊の通便隊要員として入隊していた。彼らが無線、有線、暗号に分かれ訓練を始めたのが一九四五年一月上旬。十分に技術を習得しないまま沖縄戦に突入した。
 工業学校隊の一人、長嶺勝正さん(六三)は「通信隊としては役に立たなかった。壕の修理や飯上げ、運搬作業など雑役に追われていた」と振り返る。
 司令部壕の大きさは長さ約百メートル、北側に向かう坑道は約五十メートル。長嶺さんによると、この壕は当初、東側にある第三二軍司令部壕と連結する予定で築城を進めていたが、米軍上陸で計画をとりやめたという。
 壕内には兵士や工業生らが常時八十人以上おり、首里に米軍が近づくにつれ、緊迫度を増していった。負傷兵も時折、運ばれるようになり、壕内の医務室で手術が行われた。「重症患者の『殺してくれ、殺してくれ』という叫び声が今でも頭から離れない」と長嶺さんは語る。
 戦火の阿鼻叫喚はまだ十代後半の工業生にとって、ショックの連続だった。そして心の形が変わっていった。精神に異常をきたし、壕の外をはいずり回るものが出た。
 壕の住民は兵士、工業生だけではなかった。将校たちのそばには女性の姿もあった。工業学校隊の新垣安栄さん(六二)は「将校部屋には慰安婦もいた」といい、「兵隊たちは中の様子を見せようとはしなかったが、慰安婦だということは、話に聞いていた。顔から見て朝鮮人だと分かった」と証言する。
 五月下旬、第三二軍司令部の撤退に伴い、第五砲兵司令部も首里を去る。撤退の日、慰安婦たちは司令部より先に壕を出てふろしき包みを手に、砲弾の雨の中を金城の石畳の方向へ駆けていったという。
 南部に下がった工業生を待っていたのは、まさに地獄だった。八十六人の工業生のうち、生き残ったのはわずか九人だったという事実が、それを物語っている。(第32軍司令部壕取材班)〉。


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