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資料:上原栄子著『辻の花』

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 上原栄子著『辻の華 戦後篇』(時事通信社)は1989年に刊行されている。上原は4歳の時に辻遊郭に売られ、沖縄戦当時は自らの抱親(アンマー)や妓供(こども)とともに戦火の中を生きのびている。
 上巻では、1944年(昭和19年)10月10日の空襲で辻遊郭を焼け出され、首里の第32軍司令部壕に連れて行かれたあと、識名園近くにあった上間村の給水部隊に〈従軍看護婦〉という名目で配置されたこと。そこに〈○○部隊慰安所という名称がついた〉こと。沖縄戦終了後、第32軍司令部壕にいた若藤樓の生き残りの〈お姐さん〉が訪ねてきて語ったという、首里の司令部壕内の様子、摩文仁の司令部壕での最期の様子などが記されている。
 第32軍司令部壕の説明板問題を考えるために、資料として紹介したい。

〈…中将閣下とともにトラックへ乗せられた私たちは、南西諸島最高司令官第三十二軍の本部へ連れて行かれたのです。
 初めて知る戦争、那覇の大空襲、身も世もなく震えている姐たちを見た牛島閣下は、
 「兵隊さんたちと一緒に陣地構築の手伝いをしていれば、そのうちに戦争は終わるよ」
 と、まるで父親のような愛情で、やさしい言葉をかけてくださったのです。これに力づけられた抱親様以下十数名、従軍看護婦という名目を授けられた私たちは、先着の若藤楼の姐たちを残して、真和志村字識名、その昔琉球王所有の識名園近くに陣取った上間村の給水部隊へ配置されたのです。
 歌舞音曲の優雅さをしつけられた姐たちには、「いざ!」というときの〃いざ〃がきかないのです。縞の着物や紅型衣装箪笥だけは、それぞれの田舎へ分散させてありましたが、今必要な生活必需品や食料品など、一切合切が統制を受け、不足していました。そんな中、わが抱親様だけは、闇物資を買い込んで床下にため込んでありましたのに、今は焼け落ちた楼の下敷きです。何の才覚もない姐たちが、上間村集会場へ住むことができ、その上、給水部隊から食料を運んでもらえたので、本当に「兵隊さんありがとう」と行った気持でした。そして、そこには○○部隊慰安所という名称がついたのです〉(P6〜7)。

〈若藤樓のお姐さんが、わが家へ訪ねて来ました。そして、私と同級生であった初ちゃんや、妹の富ちゃんが、抱親様(アンマー)ともども、沖縄戦を牛耳った最高司令官閣下、参謀長閣下その他、大幹部方のお供をして、総司令部壕の中で自決したことを、泣きながら知らせてくれました。
 廓生まれの彼女たちは、辻遊郭純粋のサラブレッドで、箱入り娘の見本のように乳母日傘の暮らしを送ってきました。三代続いた辻遊郭生まれの純血を誇っていた初ちゃんは、遊郭生まれでは入学もできない高等教育も、抱親様がいろいろと奔走して、素人様の戸籍に養女として入れてもらい、大変な物入りをしてやっと念願の高等女学校へ入れたのです。そしてある日ある時、自分は抱親様の実の子ではなく遊女の腹に生まれた、義理ある仲と知ったのです。事実を知った初ちゃんは、自ら学校を退いて、客を迎える身となったのです。
 昨年の那覇大空襲のとき、若藤樓の一行と、私たちの一行が先を競って最高司令部へ駆け込んだとき、私たちは給水部隊へ配属され、彼女たちはそのまま、司令部に残ったのです。そして、三月二十三日の爆撃、艦砲射撃が始まって、彼女たちは、首里城の内に構えた軍司令部の壕に移りましたが、その壕は、琉球のどこにでもある洞窟とは違って,敵の至近弾を浴びても、かすり傷程度の影響を被るだけの頑丈な壕と言われました。発電機を備えたこの壕は、いかに外が暗くとも、中は真昼のように明るく、また、塩漬けの肉、魚、豚なども持ち込まれて朝夕の食事にも事欠きません。お国のためには、明日の命も知れぬという人々が束の間の贅沢で、三時のおやつ、九時の小夜食、そしてビール、日本酒、ウイスキーと、何でも豊富で悠々たるものでした。大日本帝国の威力を示さんばかりのその壕は、親方日の丸の力を信じて疑わない当時の人情で、初ちゃんたちには絶対安全な場所に思えたことでしょう。
 皆がこの壕に入った初めの頃は、敵機の空襲も昼間だけだったので、初ちゃんたちは、将校たちのお酌に、「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル、チルチル首が散る……」などと、敵国米英の御大将の名前を小謡に組み入れて酒の肴に歌い続けていたというのです。
 しかし戦いが激しくなるにつれて、姐たちの嬌声や、淫らに浮いた様子は厳しく禁じられました。野戦築城隊と一緒に、なりふり構わず泥まみれの土運びをやり、姐たちの顔に塗るのは白粉にあらず泥土でした。そして炊事の手伝いなどを、後退命令の出る五月十日頃までやっていたそうです〉(P70〜72)。

〈首里城内の壕に、でんと構えていた軍司令部が、押され押されて最期の決戦場、島尻摩文仁の壕へと移りました。せっぱ詰まった日本軍の慌ただしい壕の中で、初ちゃんたち親妓は死ぬ寸前まで、自らの使命を感じ取り、遊女としての道に徹したのです。季節雨の壕の湿気にやられ、極度の緊張感に固くなっている兵士たちに、最後の最後まで笑いと希望の渦をまいていたというのです。
 …中略…
 最後の最後、戦争の終結も近づいて、いよいよという空気の中で、自決する最高司令官のために、白いカーテンを引いた穴の中には、畳二枚くらいの真っ白なシーツが敷かれ、壁も天井も、置かれた小机までも白一色で覆われていました。その上には、辞世を書くための巻紙、短刀、拳銃が置かれ、その後ろには白木綿で巻かれた恩賜の刀が立て掛けてあった、とお姐さんは語ります。
 葉隠れ武士の神髄を見せつけた最高司令官殿や参謀長の切腹が終わった後は、入口を爆破して、彼らの遺体を穴の奥へ閉じ込めておく手はずも整えられました。また奥へ入って機密書類を焼く参謀たちや、壕の中にいる民間軍属たちへ自決の毒薬を渡す副官もいれば「君たちは死なずともよい!」と、その薬を取り上げて、足で踏みつぶす副官もいたと言います。
 「米兵は、女子供は殺さぬから、軍属たちは皆逃げろ! 」
 と、壕の中にいる人々に向かって最高司令官殿のお達しも出ましたが、抱親様と初ちゃんと富子は潔く、死なばもろともと、自決を申し出たそうです。血のつながらぬ遊女たち親妓三人が、赤い腰紐でひざをくくり、毒薬を飲んだのです。並んで寝て、生き返らぬようにと、注射を受けながら安らかに死んでいきました。その生から死へ向かう間、初ちゃんと生死を契った副官殿が添い寝をしていたと、お姐さんは言うのです。
 初ちゃんたちが自決した後、最高司令官殿の最期を見届けた副官殿も自決しました。その後、誰かが遊女たち三名の遺体を壕の外へ引き出したそうです。死に顔をさらした三人の並んだ姿を見たお姐さんは、自分が重ねて着ていた着物を一枚脱いで、三人の顔に掛けたそうです。すると自分たちを捕まえた米兵が「ノー、ノー」と言いながら着物を取り除けて持っていったそうです。そのときは死人の顔をさらす残酷な米兵だ、と思ったそうですが、習慣の違うアメリカ流では死人の顔には何も掛けないものだと後で知った、とお姐さんは言いました〉(P72〜73)。

                                                          


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