2010年9月30日にパラオ諸島を訪ね、アンガウル島とペリリュー島で行われた慰霊祭に同行させてもらった。ペリリュー島まではリーフに囲まれ波が穏やかだが、アンガウル島は外洋にあり、天候と波に恵まれないと行けないとのことだった。さいわい、この日は大丈夫、ということで最初にアンガウル島に向かった。
船に乗ると、波飛沫をかぶるからと雨合羽を渡された。これでも波が穏やかな方のか、と思うほど船は上下に揺れ、雨合羽がないとずぶ濡れになるところだった。途中、参加者の1人が海に向かって花やお菓子、泡盛を捧げ、手を合わせていた。兄がペリリュー島に向かう途中の海で戦死したとのことだった。
アンガウル島の港の入口には、米軍戦車の残骸があり、港のそばにはリン鉱石を積み出したというレールが残っていた。アンガウル島にも当時、リン鉱山などで働く沖縄人労働者が多数おり、現地召集されて玉砕(全滅)戦の犠牲になっている。船坂浩著『滅尽争のなかの戦士たち』(講談社文庫)の巻末に『アンガウル島第一大隊名簿』が載っている。その中には比嘉周文、津波古鎌吉、諸喜田友松など沖縄人と思われる名前が並んでいる。
港から米軍の作った飛行場を通り、アンガウル州平和公園墓地に向かった。モクマオウやヤシの木が繁る海岸のそばにあり、白いサンゴ片が敷き詰められた敷地を囲うコンクリートの上に慰霊塔が並んでいる。沖縄の塔は奥の海側にあり、以前は民間地にあったものがこの地に移築されたとのこと。移された沖縄の塔の様子を確認し、現地慰霊祭がもよおされた。同塔には〈現地召集された県人の軍人・軍属ら77人が祭られている〉(2010年6月14日付琉球新報)。
沖縄から持ってきた泡盛やお菓子などを塔にうさぎて焼香した。遺族の皆さんが琉球古典音楽「かじゃでい風」「恩納節」を歌い、サンシンの音色が波音と重なった。亡くなったウチナンチューには何よりの慰めとなっただろう。
去り際に塔の前で記念写真を撮った。5年近く経つが、遺族の皆さんはお元気だろうか。沖縄戦とともにペリリュー島やアンガウル島で犠牲になった沖縄人のことも語り継ぐ努力をしないといけない。北は満州から南は南洋群島まで、兵士だけでなく民間人の犠牲がこれほど出たのも沖縄の特色である。部隊や個人ではなく、沖縄県としての塔が「玉砕の島」にある意味を考えたい。