26日は風が強く海が荒れた。船が出られなければカヌーだけでもリーフ内で練習をしようかと、準備をして松田ぬ浜に出たが、波の様子を見て取りやめとなった。汀間漁港を出てフロート付近まで行った船によれば海上保安庁から、今日は作業をやらない、と告げられたとのこと。日本政府・防衛省からすれば苛立たしいだろうが、本来はこのまま海底ボーリング調査を中止すべきなのだ。波が寄せる砂浜にはスヌイ(モズク)が打ち上げられていた。
カヌーの行動が中止となったので、キャンプ・シュワブのゲート前に行き、午前中、抗議行動に参加した。
ゲート前に立っていると、午前11時前に基地の警備員がぞろぞろと出てきた。ゲートの入り口付近に立って覆面姿で警戒している。様子を見ていると、間もなくして白と濃いグレー(黒?)のワゴン車が1台ずつと濃いグレー(黒?)の乗用車1台が基地内に入っていった。車内の様子は見えなかったが、警備員がわざわざ出てきて警護しなければならない人物が乗っていたらしい。3台が入ると警備員たちは引き揚げていった。
午前中は120名ほどの参加者が集まり、集会のあとゲート前でデモやシュプレヒコールを行った。翁長知事が出した作業停止指示を無視し、海底ボーリング調査を進める安倍政権を批判し、大浦湾を守ろう、海保は辺野古ぶるーと辺野古ドリームへの暴力を止めろ、という声がくり返された。
26日は座間味村の慰霊祭が開かれた。70年前の3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸を開始する。座間味島や慶留間島、渡嘉敷島などでは強制集団死が起こり、4月1日には沖縄島西海岸に米軍が上陸、中南部を中心に住民を巻き込んだ地上戦が行われる。沖縄県民にとって銃を向けられるのは米軍だけではなかった。友軍と呼んでそれまで協力してきた日本軍による住民虐殺や暴行、略奪、壕追い出しなどが相次いだ。
私が生まれ育った今帰仁村でも、日本軍による住民虐殺が起こっている。子どもの頃、祖父母や両親から聞かされた沖縄戦の話では、敗残兵となった日本軍が夜になると山から村に下りてきて、食料を強奪したり、米軍に協力したと見なした住民を殺害した、という恐怖が語られていた。アメリカーたーよか友軍ぬびーたいがるうとぅるせーたる。(アメリカ軍よりも友軍の兵隊の方が怖かった)というのは、祖父母から聞いた言葉だ。
当時の日本軍ほど兵士と住民の命を粗末にした軍隊はない。その極限が特攻と玉砕(全滅)であり、沖縄戦ではそれが軍隊のみならず住民をも巻き込んで行われた。生き残って捕虜となるのは恥であり、天皇のために身命を捧げて国に尽くすこと。そのような教育と宣伝に加え、米軍に捕まれば女性は陵辱され、男性は残虐な形で殺されるという恐怖心が植えつけられた。本来、戦闘員ではない住民は捕虜ではなく、戦争難民として保護されるべきものだ。日本軍はそれを許さず、住民にも「自決」、「玉砕」、「自爆」を命令、強制し、米軍と接触した者はスパイとして虐殺した。
米軍に制空権、制海権を奪われて補給も途絶えた島で、兵士も住民も本土決戦に向けた時間稼ぎの持久戦を強いられた。その結果がどうなるかを大本営の参謀たちはよく分かっていたはずだ。戦争を主導した天皇、軍部、政治家、官僚にとって、国体護持のために兵士や住民の命を犠牲にするのは当然のことだった。本土決戦が行われていれば、強制集団死や日本軍による住民虐殺、略奪、壕追い出しは全国各地で起こっていただろう。戦争になって国や軍隊が住民を守ってくれると考えるのは、甘っちょろい幻想にすぎない。それが沖縄戦の一番の教訓だ。
ヤマトゥ(日本本土)のために沖縄を利用して犠牲にする。その構図は沖縄戦から70年経っても変わらない。辺野古の新基地建設問題の根底にあるのも同じ構図だ。安倍首相や菅官房長官の翁長知事、沖縄県民に対する姿勢を見るがいい。沖縄の抵抗を無視どころか小馬鹿にしたようなあしらい方。沖縄をヤマトゥのために利用するのは当たり前、という差的認識がなければ、ここまで傲慢には馴れない。
ウチナンチューは肝に銘じなければならない。日本政府の言いなりになり、抵抗する力を失えば、何度でもこの島は悲劇に見舞われる。70年前の戦争は沖縄にとって遠い過去ではない。目の前にある米軍基地は沖縄戦の結果としてあり、異常なまでの軍事基地の集中もヤマトゥの「捨て石」として利用されてきた差別構造の結果としてある。辺野古新基地建設や高江ヘリパッド建設の現場で、沖縄戦とは何だったのか、それは現在とどうつながっているのかを、絶えず問い返すことが必要がある。