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渡辺憲央著『逃げる兵』より3

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 6月9日付琉球新報の別紙には、沖縄戦に動員された学徒たちの学校名・戦後の通称と犠牲者数の一覧表が載っている。出展は「ひめゆり平和祈念資料館資料集4 沖縄戦の全学徒隊」(ひめゆり平和祈念資料館)より。

 男子学徒が動員されたのは以下の12校とされる。( )内は現在の校名。

1 沖縄県師範学校男子部 2 県立第一中学校(首里高校)  3 県立第二中学校(那覇高校)  4 県立第三中学校(名護高校)  5 県立農林学校   6 県立水産学校(沖縄水産高校)  7 県立工業学校(沖縄工業学校)  8 那覇市立商工学校(那覇商業学校)  9 開南中学校 10 県立宮古中学校(宮古高校)  11 県立八重山中学校(八重山高校)  12 県立八重山農学校(八重山農林高校)。

 動員された男子学徒は1399名。教師は46名。計1445名だが、8〜12の学校は不明とされ、数に入っていない。戦死者数は男子学徒792名。教師24名。計816名。開南中学校は不明とされ、同じく数に入っていない。

 女子学徒は以下の10校から動員されている。

 13 県師範学校女子部  14 県立第一高等女学校  15 県立第二高等女学校  16 県立第三高等女学校(名護高校)  17 県立首里高等女学校  18 沖縄積徳高等女学校  19 昭和高等女学校  20 県立宮古高等女学校  21 県立八重山高等女学校(八重山高校)  22 県立八重山農学校・女子(八重山農林高校)

 動員数は女子学徒、教師合計で約505名(県立八重山高等女学校は約60名と概数になっている)。戦死者数は女子学徒189名、教師13名、計202名とされている。

 沖縄戦では学徒隊のほかにも、護郷隊や防衛隊、少年警察官などに10代の若者が動員され、戦場に投げ込まれた。学徒動員といっても、ヤマトゥでは中学生・女学生は軍需工場や農場での勤労動員が主であった。しかし、地上戦が戦われた沖縄では、米軍の攻撃下で弾薬・食糧などの物資運搬、通信・伝令、傷病兵の看護などの役割を担わされ、急造爆弾を抱いて戦車や敵陣に突入するなどの戦闘参加もあったのである。そうやって多くの若者が死んでいった。

 渡辺憲央著『逃げる兵』には前に見たように、〈地獄さながらの洞窟の中でかいがいしく立ち働いている女学生たちの姿〉(208ページ)が記されている。一方で、そのような女学生を日本兵が殺害した〈忌まわしい事件〉にも触れている。

〈おなじころ、暗い壕の片隅で黒木守上等兵が岩にもたれて泣いていた。黒木は大隊長を乗せるサイドカーの運転手で、浪曲が得意であった。泡盛が出る無礼講の席などでは浪速亭綾太郎の「壺坂霊験記」を得意になって語っていた召集兵であったが、背中に食い込んだ傷口の悪化で苦しんでいた。傷病兵は壕の外に捨てられることを知っていた彼は、痛いのを我慢しながら隠していたがいつか嗚咽が大きくなり、その声は将校たちの神経にさわった。
「黒木を患者壕に連れて行け」と、大隊長が永田軍曹にいいつけた。それを知った黒木は「置いてください。捨てないでください」と哀願したが、大隊長の命令に背くことはできない。永田軍曹は因果をふくめ、黒木を背負って患者壕に運んだ。黒木はあたりのものにしがみつき、「捨てないでくれ。助けてくれ」と泣きわめいた。
 壕内の食糧は底をついていた。わずかしかない食糧を食いのばすには、壕内に残っている兵を外に出すしかなかった。その夜から、三人一組の斬込隊が編成された。斬込隊に指名された兵隊たちは天皇陛下から下賜された恩賜のタバコが一本ずつ与えられ、深夜、出撃していった。が斬込とは名ばかり、これが口減らしの作戦であることは誰の目にも明らかであった。もとより彼らに戦闘能力があるはずもなく、彼らはその日から、見捨てられた敗残兵となって、沖縄の山野を彷徨うことになったのである。
 そのころ、本部壕で忌まわしい事件が起こった。日の暮れ方、一人の少女が本部壕に迷い込んできた。少女は「病院が解散になってみんなと一緒に壕を出ましたが、途中、弾に当たってひとりぼっちになりました」といった。軍の病院に動員されていた篤志看護婦の女学生にちがいなかった。壕内の兵隊たちはこの女学生の処置に困った。いま彼女を手放したら、この壕の中に敗残兵が潜伏していることを敵に察知される怖れがある。壕の奥から、「その女を処置せよ」という将校の声が聞こえた。「処置せよ」というのは「殺せ」という意味である。だが彼女は、傷ついた戦友たちの面倒をみてくれた篤志看護婦である。一人として立ち上がろうとする兵隊はいなかった。そのとき、「俺がやる」といって一人の兵隊が立ち上がった。私たち召集兵仲間から鬼のように怖れられていた芝山上等兵である。しかし、さすが鬼の芝山もかよわい女学生を前にしてひるんだか。
「大隊長がおまえを処置せよといっている。かわいそうじゃが、ここに来たのが災難だと諦めてくれ」と因果をふくめた。思いもかけない処刑命令に女学生がどのような反応を示したか。沖縄を守ってくれるものと信じていた味方の日本兵にいま刃をむけられている。彼女の悲しみと怒りは、せめてお国のためにという悲しい諦めしかなかったにちがいなかった。
「わかりました」とうなずいた彼女は「兵隊さん、東の方を教えてください」
といった。
「東の方を訊いてどうするんじゃ」
「天皇のおられる宮城を拝んで死にます」
 彼女は芝山から教えられた方向に座り直して両手を合わせた。芝山は、そのうしろからものもいわずに銃剣を突き刺した。切っ先は薄い女学生の胸を貫き、身につけていた上衣を真っ赤に染めた。
 この事件は暗い壕内の空気をいっそう重苦しいものにした。梅田大尉の壕でこの噂を聞いた山之内は激怒し、「なんという怖ろしいことをする奴じゃ。芝山は俺が殺してやる」と憤った〉(217〜219ページ)。

 学徒隊に解散命令が下ったのは6月18日である。それまで日本軍と行動を共にしてきて、いきなり解散を命令され戦場に放り出されても、米軍に包囲された沖縄島の南端に逃げる場所はなかった。それから、牛島満司令官の死をもって日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日(22日の説もあり)までの間に、学徒たちは多くの戦死者を出す。その中には日本軍に虐殺された女学生もいたのである。この事実を私たちは忘れてはならない。

 今月26・27日に、天皇夫妻が沖縄に来る。対馬丸記念館を訪れるのが主な目的だが、時あたかも集団的自衛権の行使が焦点となり、与那国島をはじめ石垣島、宮古島に次々と自衛隊が配備されようとしている。辺野古では新基地建設に向けてボーリング調査が始まろうとし、高江ではヘリパッド建設工事が再開されようとしている。

 70年前の夏、沖縄は各島で軍事要塞化が急速に進められていた。島民が歓呼の声で迎え入れた天皇の軍隊は、しかし島に災いしかもたらさなかった。米軍が攻撃したのは、日本軍が軍事拠点とした島である。軍隊がいて基地があったから、島は狙われたのだ。

 宮城遙拝をして日本軍に殺された女学生の死を、来沖する天皇は知ることもないだろう。一銭五厘の消耗品として捨てられた兵士たちの死も。だが、それらの死にこそ、沖縄戦で直視しなければならない軍隊の本質が露呈している。

 中里介山の詩「乱調激韵」の朗読である。

https://www.youtube.com/watch?v=0UvdEIRdUsg

 

 

 


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