23日(金)は沖縄戦から78年目の慰霊の日だった。
午前中は本部町の八重岳に行き、三中学徒之碑と国頭支隊本部壕・病院壕跡を訪ね、お菓子やお茶、泡盛を供えて手を合わせた。
私の父も78年前、三中鉄血勤皇隊の一員として、この地で米軍と戦っている。当時14歳だった。
今はもう碑の前で慰霊祭は行われていない。それでも高齢の遺族が、家族に支えられて碑に向かい、ご馳走や花を供えて手を合わせていた。
国頭支隊の本部壕・病院壕跡は、慰霊の日の前に草が刈られる。いつもはオキナワスズムシソウが茂っていて、今日もコノハチョウが飛び交っていた。
米軍の攻撃に耐えられず、伊江島上陸を機に本部半島の国頭支隊は多野岳に敗走する。
歩けない重症患者はこの地に置き去りにされ、手榴弾を渡されて自決を強いられた。
親兄弟、妻や子、恋人のことを思い、どれだけの無念を抱えて死んでいったことだろうか。
親たちは息子の死に場所をつきとめ、この地で手を合わせることができただろうか。
住民虐殺や食料強奪など、友軍=日本軍がやった蛮行は子どもの頃から聞かされてきたが、下っ端の兵隊たちの無念の死を思い、慰霊の日に手を合わせる人がいないと気の毒なので、いいちゅーぐゎーしーして菓子や酒を供えている。
午後はナングスクにある和魂の碑を訪ね、最後に少年護郷隊之碑の前で行われた慰霊祭に参加した。
この十年余、学徒隊や護郷隊の生存者が、戦争体験の証言者としてメディアによく取り上げられた。その皆さんも90代となり、年々亡くなっている。
新型コロナウイルスの感染拡大で、慰霊祭を開くこともままならなくなり、その間に亡くなったり、歩けなくなった高齢者も多い。
10年前に三中学徒之碑の慰霊祭で撮った映像がある。校歌を歌う皆さんの姿を思い出し、あらためて沖縄の地で戦争を許さない努力をしなければと思う。