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「清田政信について」/『叙説』XV号/特集「検証 戦後沖縄文学」より

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 以下に紹介する文章は、文芸批評誌『叙説』XV号(1997年8月25日/花書院発行)に掲載されたものです。同誌では「検証 戦後沖縄文学」という特集が組まれ、その中にエッセーとして発表されました。一部、誤植を訂正しています。

 

 昨年末、那覇市で「沖縄文学フォーラム」が開かれた。二日間にわたって行われた講演やシンポジウムを聞きながら、舞台に掲げられた「土着から普遍へ ― 多文化主義時代の表現の可能性」という題の、「土着」という言葉に終始違和感を覚えずにはいられなかった。「普遍」という言葉に向かう出発点がなぜ今「土着」なのか。「土着」という言葉によって私の中に喚起されるイメージ(〈シマ〉と呼ばれる共同体の中で、一次産業と祭祀を中心に生活を営んでいる人々や、その生活・言語・習慣・自然・風土etc)と、目の前で日々急速に変化している沖縄の状況がどうにも嚙み合わず、「土着」という言葉に「悪戯」(わちゃく)されているような気にさえなった。「土着」という言葉を採用するにあたっては、フォーラムの企画運営の中心であった大城立裕の意向が強く働いているものと推測するが、シンポジウムに参加した又吉栄喜や小浜清志をはじめ、会場にいた沖縄の小説の書き手たちは、この「土着」という言葉を違和感なく受け止めえたのであろうか。沖縄出身の小説の書き手では最も若い世代に属する池上永一の『バガージマヌパヌス』のように、登場人物のキャラクターから御嶽の描き方まで、マンガやアニメーションのひとコマを想起させるような「軽み」を持った作品が登場している現在、「土着」という言葉を鍵概念に、沖縄の文学状況や沖縄の書き手たちの作品をどれだけ読み解くことができるのか。

 このような「土着」という言葉をめぐる疑問を会場から出た後も考えながら、思い起こしたのは清田政信という詩人のことである。

 清田政信は一九三七年、久米島に生まれ、琉球大学入学後『琉大文学』の中心メンバーとして活動した。六十年代から七十年代の沖縄の詩人の中で最も精力的に詩と批評を書き、大きな影響力を与えた詩人である。学生時代、沖縄の詩人や小説家を読み進める中で、私が最も強い印象を受けたのは清田の詩と批評であった。フォーラムの後、清田の重く屈折した難解な批評文を久しぶりに読み返しながら、「土着」や「村」「共同体」「組織」「民衆」という言葉をめぐる緊張した思考の積み重ねに、複雑な思いを抱かずにはおれなかった。

 日々加速度的に変容する沖縄で、清田の詩と批評は今どのように読まれるのか。日本列島の北から南までプリクラ・タマゴッチ、援助交際がはびこり、風化していく祈りと見せ物と化していく祭の中で、いたずらに持ち上げられ、価値を付与される「土着」的「沖縄」。マスメディアによって敷きならされる画一的な文化状況に、ほんの少し異なった色合いを添える「沖縄」。ここ数年、基地問題を中心とした沖縄の政治状況が、本土のマスメディアで大きく取り上げられた。それ以前から注目されていた音楽や芸能に加えて、又吉栄喜の芥川賞受賞を契機に、沖縄の書き手たちの表現の広がりや模索が一定の注目を受けた。そのような流れの中で先のフォーラムも行われたのだが、沖縄の書き手たちは今、自らの生き、表現する場としての沖縄とどのように向かい合い、どれだけの緊張を保ちえているか。この問いは当然私自身にも向けられる。そしてその問いを自らに向ける時、清田の詩と批評を改めて考える意義を感じたのである。

 沖縄出身の画家・安谷屋正義を論じた評論の中で、清田は次のように述べている。

「ぼくらは安谷屋正義の仕事でもっともその作者の精神を象徴する作品は何と問われたら、ためらわずに『塔』のシリーズをあげるだろう。それは色彩を抑え、何の肉づけもなく、垂直に伸びる意識の先端が虚空へ突き入るように痛々しく佇っている。共同体の中で個の意識を失って、横に広がる沖縄の状況から己の思想を構想するには『垂直へ!』肉を殺いで骨格を曝す以外になすすべはなかったということか。いや沖縄の画家が南島風土をほとんど何の媒介項もなくキャンパスに導き入れる風潮に抗して、〈私〉の所在を求めるとき、内部への究問と化したなら、最後に残された線の戦慄が、この画家の表現行為となり得たのだ。」(「安谷屋正義論」)☆1

「ところで私にとっての戦後とは何だろう。それは自らが信じていた大人たちの社会をすべる価値への懐疑としてはじまり、文学的な意味では、自然発生的な具象に対する批判として生きられたはずだ。具象とは風俗であり日常であり風土なのだ。それら具象が己れを自覚するのは抽象という意識のムーブマンを媒介する以外にない。」(「安谷屋正義論」)

 清田が安谷屋正義の絵に見た批評意識と方法は、また彼自身のそれでもあった。青い海・青い空・赤瓦の屋根・芭蕉の葉・闘牛・エイサー・基地・ロック・沖縄戦…etc。それこそ絵に描いたような〈沖縄〉を無媒介に取り入れたのは、画家たちばかりではない。詩にしても小説にしても、どれだけ多くの「沖縄的」な「物語」が生産されてきたことか。「南島」の「風土」や「土着」に無批判に依拠することなく、表現者として自立するためには何がなされなければならなかったか。清田は、先行する五十年代の詩人たち(新川明・川満信一)を、過酷な政治状況に突き動かされて安直なプロパガンダに陥ったと批判し、同時に「南島」の風土に寄りかかった素朴なリアリズムをも否定する。そして「不可視の内部を見る方法」としてのシュールリアリズムの方法を駆使しつつ、状況論を超えた沖縄の問題性の本質に迫るために自らのうちなる沖縄の表出を目指し「抽象」へと向かう。

「文学は記録ではないし、また単なる自己主張の道具でもない。自己の内部へ深く潜入することによって、想像力の自律性を把握し、たえざる自我の崩壊を確認し、論理の射程を超える地点に不可視の領土を所有しようとする広大な意志を持ち続けることだ。疎外の形態をなしくずしにしてしまうプラクシスへの傾斜を強打し、一方、一枚岩的思考によって原則論を固持し、状況判断の優位に寝そべってしまう政治ぼけを痛撃しうる時、今日的文学の生きる唯一の途がひらけるといえよう」(「オブジェへの転身」)☆2

 二十代の前半期でこのような姿勢を確立した清田は、八十年代半ばで精神の病によって創作不能に陥るまで、その緊張感に満ちた姿勢を維持しつづける。かつて学生時代に、清田の詩や批評を読みながら私が感銘を受けたのは、そのような強烈な批評意識に支えられた思考の屈折の深さ、組織や共同体への批判であり、〈土着〉や〈風土〉という言葉に回収される通俗的な沖縄のイメージへの潔癖な拒否の姿勢だった。

 「日本復帰」から二五年目を迎えた沖縄で、清田の存在は一部の書き手をのぞいては取り上げられることもない。しかし、沖縄の小説がある程度注目され、沖縄の文化や風土、政治状況が文学作品を生み出す上での優位性として語られている現在だからこそ、沖縄の内にあって通俗的な沖縄のイメージへのよりかかりを激しく批判した清田の批評意識と表現者としての自律性を、自らを映す鏡として検討する意義があると私は思う。自らの生きている〈場所〉と自己自身への厳しい批評意識を欠落させた小説が、オリエンタリズムの眼差しに迎合した「風俗小説」に堕していくのは必定であろう。

 

☆1「安谷屋正義論」初出は『琉球新報』一九七九年九月十二・十四・十五日。『情念の力学』(一九八〇年、新星図書刊)所収。

☆2「オブジェへの転身」初出は『琉大文学』三巻一号・一九六一年十二月刊。『抒情の浮域』(一九八一年、沖積社刊)所収。

 

 


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