以下に紹介する文章は、2004年6月と7月に上演された演劇集団「創造」第33回公演「人類館」のパンフレットに、「腐れ沖縄 豚殺し」という題で掲載されたものです。
私の祖母は十代の頃に神奈川の紡績工場に働きに行っている。沖縄に戻って半年ほどして関東大震災があり、一緒に働いていた女工の多くが犠牲になったと話していたので、大正十一年から十二年にかけてのことだろう。
震災後の混乱の中で朝鮮人が殺され、共通語がうまく話せない沖縄人も殺されようとしたことや、町中の食堂に入ろうとしたら「琉球人、朝鮮人お断り」という張り紙がされていたという、巷間よく伝わっている話も祖母から聞いた。他府県から来た女工と喧嘩になり、「腐れ沖縄、豚殺し」という悪罵を投げつけられた、という話もしていた。
それから六十数年後の昭和の末期から平成のはじめ、関東のとある大工場(敷地十八万坪で従業員四千三百名と記憶)で、私は出稼ぎ労働をしていた。一緒の組み立てラインで働いている北海道の若者は、「沖縄いいですよね」としょっちゅう口にしていた。バブル経済たけなわで、沖縄音楽もブームになっていて、畏れ多くも天皇陛下は下血の最中であった。「自粛」という言葉が流行り、陽水のCMや祭りが中止となった。子どもの保育園の行事も中止になったとかで、隣で働いている「若奥さん」(そういうシリーズのビデオも流行っていたな)が怒っていて、「天ちゃん、早く死んじゃえばいいのにね」とさりげなくおっしゃったのが、強烈に印象に残っている。と、話が脱線したが、言いたかったのは沖縄に対する「本土側」の意識や対応もだいぶ変わっていた、ということだ。
以後、沖縄ブームが起こり、今も観光業とともに何のかんのと問題を指摘されながらも継続発展中というのは周知の通り。しかし、それじゃー「沖縄差別」はなくなったか、といえばそんなはずはない。2チャンネルなんていう劣情を刺激する世界では、今でも沖縄に限らず「差別」は大流行だ。「差別」が好きなのはウチナーンチューも一緒で、教員をやっている頃、宮古に転勤希望を出した私に「やめたほうがいいよ」と、ご親切にも忠告してくれた人は一人や二人ではない。宮古に行ったら行ったで、多良間や伊良部といったより小さな島に対する「差別的発言」を何度も耳にした。
はたして「人類館」は過去の話なのか。