農、漁村から都市への人口の流出とそれに伴う共同体の崩壊という現象は、本土においては戦後復興から高度経済成長にかけて五十年代から六十年代に大規模に進行した事態であろう。戦後二十七年間にわたるアメリカの施政権下で高度成長から取り残された沖縄では、一九七二年の「祖国復帰」を境にそれが一挙に進む。
本土資本の流入とドル・ショック、石油ショックによる経済混乱の中で、七五年の国際海洋博覧会の開催にむけて本土資本による土地の買い占めが進み、乱開発による赤土の流出、オニヒトデの大量発生、珊瑚の死滅という今に至る問題が起こる。海洋博の失敗によって企業倒産が続出し、本土平均の三倍近い失業率は恒常化。若者を中心に労働力が本土都市部へ流出する一方で、過疎化に悩む村に本土では邪魔者扱いされているCTSなどの企業が、雇用の創出と地域の活性化を謳い文句に進出する。
たちまち地域には賛成派と反対派の対立が生み出され、部落の祭祀や行事はもとより日常生活の次元まで争いは持ち込まれ、住民の心を深く傷つけていく。耕すもののいなくなった土地を狙って土地ブローカーが走り回り、土地を売って泡銭を得たものの、馴れない商売を始めて失敗するものや、「片腕の悪魔」に狂って破滅するものが現れる。
立ち遅れている社会資本の急速な整備を目的に莫大な公共事業費が投資されるが、そのあらかたは本土の大手建設会社に吸収され、下請け、孫請け、曾孫受けの地元中小建設会社に本土で適応できずにUターンしてきた若者や現金収入の欲しい農漁民、仕事にあぶれた男達が日銭を求めて集まる。海岸線は埋め立てられ、山林を切り開いて直線道路が縦貫し、土地区画整理事業によって農地は大規模に敷きならされ、短期間に地域の景観は一変する。同時に人々の生活も意識も急激に変化していった。
そして現在、リゾート法の施行によって島ぐるみのリゾート地化が進み、沖縄の固有信仰を支えている聖地であるが故にわずかに残されてきた御嶽(うたき)の森(むい)や井泉(カー)などをも破壊しつつ大型ホテルやゴルフ場の建設が相次いでいる。
「……今回のリゾート開発の波は、むしろその残された聖域をねらいうちするかのように、聖域をとりかこみはじめた。都会ではすでに失われた聖域の神秘性こそが、今、リゾートが最も欲しがっている風景である。同時に、広大な土地を必要とするゴルフ場を中心とするリゾート開発は、山の斜面であろうと、谷間であろうと、躊躇することなく巨大なシャボやブルドーザーを入れ、たちまち敷きならしてしまう。それだけでもなお足りないので、今度は、土地改良をすでにすませた、本来なら買えないはずの農地にさえ手をつけている。」(安里英子『揺れる聖域』沖縄タイムス社刊)
御嶽(うたき)の森(むい)といってもそれはほとんどが海抜五十メートルにも満たない小高い森にすぎない。しかし亜熱帯特有の光と風と雨によって広葉樹を中心に豊かな植物相を成しているばかりでなく、沖縄固有の動物や昆虫の棲息地でもある。その麓に湧きだす湧泉は大きな川のない沖縄ではもっとも大切な場所であり、今でも旧暦の五月には「カー拝(うが)み」といって、部落の始まりに祖先が使ったという井泉を拝む習慣が残っている。御嶽の森はその井泉の水源涵養林でもあり、一木一草採ることは許されなかった。同時に森は冬の北風(にしかじ)や台風から集落を守る黄金森(くがにむい)でもあった。
「久高島では、ウタキ(御嶽)は北側に集中してありますが、貝塚も北側にある。木もある。その背景につまり食糧供給源として、北側にイノーが発達している。イノーでは魚や貝がたくさんとれる。」
前掲書の中で写真家の比嘉康雄氏が指摘していることである。古代の部落は風水の被害から守り、豊かな水をもたらす御嶽の森と井泉、そして食糧供給源としてのイノー(礁池)を基礎として成り立っていた。それ故にそこは信仰の対象になり、大切に保護されてきた。しかし、沖縄のイノーはすでに「復帰」後の乱開発にともなう赤土汚染により、珊瑚の九十パーセント以上が死滅している状況にある。本土から来た観光客が青い海にどんなに感激しようとも、その底には瓦礫と化した珊瑚の残骸が転がっているだけだ。そして今、陸に残された聖域である御嶽の森が破壊されようとしている。それは単に自然の生態系の破壊にとどまる問題ではない。沖縄の文化の根の破壊につながる問題である。
御嶽の森は抽象的な象徴としての神の森ではない。実際に神が息づき、見つめる森なのだ。小規模ではあっても鬱蒼と茂った植物の量感は安易に足を踏み入れることを許さず、小暗い樹陰の冷気と瑞々しい植物や腐葉土の匂いは人を内側から浄らかにし、鳥の叫びや蝶の揺めき飛ぶ様の一つ一つに感覚は鋭くなって、森の奥にいる神の気配を全身で感受させる。そのような森の中での祈りを通した神との豊かな交感こそが、自然への畏敬と怖れ、豊穣への強烈な祈りと感謝を込めた謡を生み出してきた。
あるいは、時刻や気象によってさまざまに様相を変える海での生活と祈りを通した交感が、豊穣や災いをもたらす他界としてのニライカナイを生き生きと幻視させた。沖縄の文化に固有の豊かさがあるとすれば、それは本土において近代化の過程で先に失われていったこのような古代的、汎神論的な感受性をもたらす土壌をいまだに持ちえているからだ。いや、持ちえているといっても、もはやそれは部落の御嶽の傍に住み、祭祀を司る神人やそれを支える人々の中にごくわずかに残っているだけだ。自ら一人の祈りでは支えきれないと涙を落すほどに共同体の重みとその背後にある神への畏れを感じることは私達にはもうない。
御嶽の森の破壊にしても、それはけっして外部の観光資本の力によってのみ行われているのではない。地域の振興開発という錦の御旗を立ててリゾート産業の誘致に励んでいるのは、地域の自治体であり住民である。雇用の創出による若者の定着化、財源の確保、村興し、全国各地で今、行われていることだ。地域文化の見直しが言われて、エイサーや民俗芸能、豊年祭なども最近はむしろ盛んになっている。しかし、御嶽の森や井泉などの祭祀空間=聖域を破壊した上に成り立つ祭とは何か。
「いまの沖縄に、父祖の顕彰碑も、ようどれもたまうどぅんも、いざいほーもあかまたくろまたーも、エイサーもカチャーシー、島唄も組踊り(くみうどぅい)も、紅型(びんがた)も絣りも花織(はなうい)も、壺屋焼きも…………………それらはすべて存在している。日本帝国主義の一地方の風俗として、それらの存在はむしろ奨励されている。人々はそこに原沖縄の存在、村落共同体の現存を幻想する。それはまるで母の骸(むくろ)を喰らうかのようである。いずれこれは、日本国家全土の状況なのだ。『村興し』『島興し』を政治が言うときは、村も島も殲滅されるときだ。」(関広延『沖縄びとのげんそう』三一書房刊)。
関氏の指摘は厳しく、正しい。無論、琉球弧の島々の各部落(しま)の現状は多様であり、「かけらもない」と断言できはしない。しかし、今日の状況の示す方向において正しい。御嶽の森は大半が字有地である。それを単なる雑木の茂る森としか見なさず、利用しなければ勿体ないという理屈がまかりとおるとき、それは字の評議員会を経て、住民自身の手で売り渡される。
森や海に神を感受する能力はおろか、部落共同体を支えていた論理や自然と生活の間に成り立っていた秩序の構造を検証し、将来につなげる構想力もないまま資本の論理につき動かされていくだけなら、孤立した大衆化状況の部落における再生産と祭の見せ物化が進むだけだ。それがどんなに隆盛化を誇ろうと、もはや関氏の言うように「日本帝国主義の一風俗」以上ではない。