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随想「風音」と実家の花

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 以下の文章は「琉球大学学生新聞」第168号(1984年6月25日発行)に深見透という筆名で掲載されたものだ。

 翌1985年に「風音」という小説を書き、同年12月26日から1986年2月5日にかけて沖縄タイムスに連載された。

 小説の原型になった随想で、誤字や表現のおかしな点を一部直している。

 

 誰でも心の中に忘れぬことのできぬ風景があるであろう。それは幼い頃過ごした家のまわりの自然や家並の風景であったり、あるいは家の中のある部屋の片隅であったりする。

 私にとってそれは幼い頃よく釣りをしたある川口の風景である。マングローブの群生する川岸に沿って、半ば水につかった太い杭が規則正しく並んでいる。それは作られた当初は一律の形をしていたのであろうが、何十年も風雨にさらされる中で、朽ち果て、それぞれに固有の色と形をして深い緑色の水面に映えている。

 記憶の中の私は、そのような川口の風景をぼんやりと眺めながら、釣りにはすでに興味を失い、あたりに湧き上がる音の群れに耳を澄ましている。私は自然の中に満ち溢れる音の群れを構成するひとつひとつの要素を聴き分けようとする。

 やがて私はひとつの音に気付く。固い爪が乾いた石をかきむしるような音に。私はその音を確かめる。川に面した森の斜面に戦時中に掘られた防空壕と、石灰岩の岩壁をくり抜いて造った古い墓が並んでいる。その墓のいくつかは入り口を封じていた石が崩れ落ち、中が露わとなっていて、厨子甕からはみ出した白い骨が暗がりの中に浮かんでいる。音はその骨の方からするのだ。私は目を凝らす。白い骨にしがみついている黒い塊。それは青紫色のはさみを持った拳大の蟹なのだった。

 戦争も終わりに近付いた頃、浜辺に若い特攻隊員の死体がうち上げられた。死体が腐らぬうちに、靴は脱がされ、衣服は剝ぎとられた。身元の分からなくなった裸の死体は、しばらく波打ち際にただよっていたが、やがて村人の手によって崖の上の海に面した空き墓に入れられた。墓の入り口は塞ぐ余裕もなかった。若者は白骨となり、露となった墓の中に海を向いて頭蓋骨が転がっているのが見えた。戦後、村にその頭蓋骨が泣いているという噂が流れた。実際、確かめると海から吹いてくる風にのって、もの悲しい音が聞こえてくる。誰も怖がってその原因をつきとめようとしながったが、ある日一人の男が意を決して崖の上に登っていった。墓の中には朽ち果てた若者の骨が散らかっており、数匹の蟹が群がっていた。男は蟹を追い払い、頭蓋骨を手にとった。右のこめかみから左の側頭部へ、銃弾の貫通したらしい二つの穴があいていた。その二つの穴を海からの風が吹き抜けるたびに、あのもの悲しい音が起こった。男は酒で洗骨すると、散乱した骨を墓の奥にまとめた。それからはるか北の方の海に向けて頭蓋骨を置いた。以来、あの風音は聞こえなくなった。

 これは祖父から聞いたひとつの話である。おそらくこれと似たような話は沖縄の各地に数多くあるのではないだろうか。

 私は会田綱雄の「伝説」という詩を思い出す。おそらく祖父の語ったこの話も事実そのものではなく、一種の伝説なのであろう。生々しい体験はある程度美化され、人々の心に受け入れやすい形で伝えられていくものかもしれない。それは常にある種の危険を伴う。そのことに注意しながら、私は生き残った人々が聞いた風音の意味を考えてみようと思う。それは人によって様々であろう。その様々な形を考えてみることが今の私にとって自分を知ることでもあるように思うのだ。

 実家の庭では桜や椿、スミレが咲いている。

 昨日29日まで、今帰仁城址では桜祭りが開かれていた。

 実家では6本の桜が花を咲かせているが、まだ五分咲きほどだ。メジロが頻繁にやってきて蜜を吸っている。

 椿の花を見ると済州島を訪ねた時のことを思い出す。

 菫が咲き終わる頃には、ツマグロヒョウモンが卵を産みに来るだろう。

 


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