以下の文章は、2021年4月28日付琉球新報に〈沖縄戦犠牲者と新基地建設/本部の山にも戦没者遺骨/辺野古土砂への使用禁止を〉という見出しで掲載されたものです。
子どもの頃、母方の祖母が住む家の隣に喜瀬さんという老夫婦が住んでいた。喜瀬のおじいは家で琉舞を教えていた。縁側には踊りを習いに来た女生徒たちが読むマンガ雑誌が置かれていて、時おり、それを読みに喜瀬さんの家を訪ねた。幼心にやさしい人たちだったという印象が残っている。その喜瀬さんの息子が県立三中(現名護高校)に通っていて、学徒隊の一員として本部半島で戦死したことを知ったのは、だいぶ後のことだ。
同じく三中の学徒隊だった父の話では、本部半島に配置されていた宇土部隊(独立混成第四四旅団第二歩兵隊)が、米軍の攻勢に耐えられず、八重岳から名護の多野岳に撤退することになった。三中学徒隊も移動を開始したが、喜瀬さんの息子は父たちに、一人でも米兵を殺さないと気がすまない、と言って乙羽岳に向かったという。そして、再び帰ってくることはなかった。
八重岳の戦闘で父は、上原上等兵という人と二人一組で、擲弾筒の攻撃を行ったという。茂みのあちこちに銃を構えた日本兵がいて、軍用犬を連れた米軍が近くまで迫っていた。岩の先端に擲弾筒を二基据えて、二組で攻撃していたが、弾を撃ち尽くしたので父は保管場所に取りに行かされた。
戻ってくる間に、もと居た場所は米軍の攻撃で木々が吹き飛ばされ、残っていたのは上原上等兵だけだった。擲弾筒は筒が射抜かれて使えず、上原上等兵は銃で応戦したが、米軍の攻撃が激しくなり、二人は腹ばいになって身を隠した。
父は上原上等兵のすぐ後ろにいた。上原上等兵が手榴弾を投げようと少し頭を上げた時、ピシッと音がして、彼の顔の前にあった石から石粉(イシグー)が飛ぶのが見えた。上原上等兵の頭がガクッと落ち、同時にお尻が持ち上がったが、すぐに沈んだ。足を引っ張って「上原上等兵」と呼んだが反応がないので、父は「サッタサヤー」と思ったという。このままでは自分もやられると思い、離れた場所にある大きな岩まで走った。
父によれば「映画ぬぐとぅ」銃弾が体のそばを飛んでいった。岩の陰に飛び込むと、三中の先輩たちが隠れていた。「上原上等兵がやられた」と言うと、一人が様子を見に行った。しかし、戻ってくるなり「逃げれ、逃げれ」と言ったので、みな一目散に逃げたという。
上原上等兵がその後どうなったかは分からない。何年か経って父は八重岳に遺骨を拾いに行ったという。しかし、木々が生い茂って場所がはっきりせず、見つけられなかった、と話していた。上原上等兵の遺骨は、今でも八重岳のどこかに埋もれているのだろう。
戦場となった本部町八重岳は、いまは桜の名所となっている。山頂に向かう道沿いに「三中学徒之碑」が建てられている。そこから少し離れた脇道の奥には、宇土部隊の本部壕・野戦病院壕跡がある。六月二三日の沖縄戦慰霊の日に、それらを訪ねて手を合わせることが多いのだが、昨年はぺーかた(中南部)から来たという夫婦と本部壕跡で短い会話を交わした。男性の伯父が八重岳で戦死したが、遺骨は見つかっていないとのことだった。
沖縄島中南部の戦闘に比べて、北部の戦闘はよく知られておらず、地元住民以外の関心も低い。だいぶ前のことになるが、関西にある沖縄関係の資料を集めた施設を訪ねた時のことだ。書棚に並ぶ資料を眺めていると、近くのテーブルで沖縄戦のことを調べている若者たちがいた。
大学生くらいの青年がリーダーで、高校生くらいの若者数名にいろいろ指導しているのだが、「北部は大した戦闘がなかったから調べなくていいよ」という声が聞こえて愕然とした。ああ、この程度の認識なのだな……、と思ったが、では今、沖縄の若者たちが北部の戦闘をどれだけ知っているか、と考えれば、ヤマトゥも沖縄も大した違いはないかもしれない。
沖縄戦戦没者の遺骨が混じった沖縄島南部の土砂を、辺野古新基地建設に使おうとしていることが、大きな問題となっている。がまふやーの具志堅隆松さんの県庁前でのハンストやこれまでの遺骨収集ボランティア活動には敬意を表するし、賛同する。
一方で、県内メディアをはじめ多くの人が南部の土砂にこれほど関心を示すのに、現在進められている辺野古側の埋め立て工事や本部半島の土砂については、ほとんど報道されず、話題にもならないことに違和感を覚える。
本部半島の山々にも地元住民や三中学徒隊員、護郷隊員、防衛隊員、日本兵、中南部からの避難民、朝鮮の人々などの遺骨が残っている。また、遺骨が混じっていなくても、その土砂を新基地建設に使っていいとはならない。現在、キャンプ・シュワブがある場所には敗戦後、大浦崎収容所が造られ、そこで亡くなった人たちのことも忘れてはいけない。
沖縄戦当時、私の父は十四歳だった。そんな少年に銃を持たせ、戦場に送り込んだ日本国家の冷酷無比な姿勢は、今も沖縄に対し貫かれている。それに徹底して抗わなければ、沖縄は対中国の軍事要塞として再び犠牲を強いられる。