葉桜の下、実家の裏庭でパパヤーやビワが実っている。桜、パパヤー、ビワとピユシ(ヒヨドリ)やガラサー(カラス)が実を食べて糞をし、生えてきたものだ。ベンシルー(グアバ)やシークヮーサーも同じだ。苗を買ってくる必要はない。
パパヤーは野菜として炒め物に使え、塾せば果物として食べられる。肥料も農薬も必要なく、便利な植物だ。実家ではいつも数本は育てている。沖縄の自然は豊かで、人に多くのものを与えてくれる。この自然の中に浸って生きていられたらどれだけ幸せだろうか。
しかし、現実はそうはいかない。この2日は確定申告とティダの会のビラ配布で多くの時間を費やしてしまった。歩きすぎて膝が痛いが、ビラ配りをしなければ入らない路地や場所に足を運ぶので、地域の様子を知るいい手段ではある。
表題の琉歌の意味は、難儀なことを重ねて苦労しているが、いつか花が咲くときもあるだろうか、という意味。祖父が残した日記を見ると、日々の感想を8886の琉歌にして残している。昔の沖縄人はそうやって、思いついたことをサンパチロクにのせて気軽に歌っていたのだろう。
今帰仁村仲宗根のエイサー歌には、戦後、祖父が作った琉歌が歌詞に入っている。次のような2首だ。
世の中(ゆぬなか)ん変わてぃ さよ 民主主義なやい 我した女達(ゐなぐんちゃー)男女同権 あね、うりひゃーばちくゎいやさ
義務果たちからどぅ 権利あるたみし 勘違い(かんちげー)すなよーやー 自由民主主義 あね、うりひゃーばちくゎいやさ
エイサー歌としては異色なものだが、亡くなった祖父や父の話では、戦前のエイサー歌は卑猥な歌詞が多かったが、戦後は省かれたという。代わりに新しい時代の価値観を織り込んだ歌が入ったのだろう。卑猥とは大らかな性行為であり、豊穣を寿ぐ意味もあったはずだ。米国仕込みの「戦後民主主義」が広められる中で、エイサー歌も変わっていった。ただ、それは悪いことばかりではなく、変化は生きている証でもある。