上の新聞記事は、1995年9月8日付琉球新報夕刊に、下の記事は1995年9月9日付沖縄タイムス朝刊に掲載されたものだ。同年9月4日に発生した3人の米兵による女子児童への事件を報じた両紙の最初の記事である。辺野古新基地建設をめぐる問題は、すべてこの事件から始まった。
もう事件から23年以上がたち、現在30代以下の人は、この記事を目にしたことがない人がほとんどだろう。当時、この記事を目にした沖縄県民の衝撃は計り知れなかった。沖縄だけではない、日本全体、米国にまでその衝撃は伝わった。米軍基地が集中する沖縄で発生したこの事件は、日米安保体制を揺るがしかねないものとして、日米両政府はその対応に追われた。
日米両政府が恐れたのは、沖縄県民の怒りが米軍基地に向けられ、基地の円滑な運用ができなくなることだった。それを避けるために打ち出されたのが、普天間基地の返還だった。しかし、その実態は県内「移設」という名のたらい回しであり、基地の「整理縮小」を隠れ蓑にした新たな基地の建設だった。日本政府は振興策という形で金をばらまき、県民を懐柔して分裂させていった。
私たちは忘れてはいけない。あの時、沖縄の大人たちは、一人の子どもを守れなかったことを恥じ、二度とこのような犠牲を生み出してはいけない、と反省し、誓ったのだ。そして、諸悪の根源である軍事基地の撤去を実現するために努力することを決意したのだ。新たな基地をどこに造るかなど、想像すらしなかった。
しかし、この23年の間、私たちはその努力をどれくらいやったのか。いつの間にか辺野古新基地問題、普天間基地の撤去問題の原点に何があったかを忘れ、あるいはタブー扱いし、触れないことにしているのではないか。辺野古の海、大浦湾で起こっている現実からも目をそらし、辺野古に足を運ぶ努力もしないで、辺野古新基地問題を論じてはいないか。
いま私たちが県民投票をやらざるを得ないのは、23年前に起こった事件の反省を生かしきれず、あの時の決意を実現しきれなかったことの結果でもある。事件が起こった沖縄島北部東海岸に、新たな基地を造る。そういう理不尽なことを許していいのか。県民投票に行く前に、一人でも多くの人が当時の記事を読んで、辺野古新基地問題の原点に何があったかを考えてほしい。