16日(土)は朝、カヌー41艇で松田ぬ浜を出発した。辺野古先付近で抗議船7隻、ゴムボート1隻と合流し、目の前で行われているN4護岸の建設工事に反対する海上大行動を行った。
途中、K4護岸のそばを通ると、護岸の内側にダンプカーが栗石を投下していた。防砂シートを敷く前に被覆ブロックを埋める作業で、②工区での埋め立て土砂投入に向けての準備が進められている。
辺野古岬側の②-1工区ではいつものように土砂の投入が行われた。
辺野古岬で建設されているN4護岸は、続けてK8護岸として伸ばされ、最終的には辺野古岬と長島の間を流れる潮流をふさぐ形になる。これまで造られた護岸と比べても、辺野古の海、大浦湾に与える悪影響が大きい。近くには移植対象のサンゴがあるにもかかわらず、沖縄防衛局は工事を強行している。
K8護岸の先端部には軟弱地盤があり、大規模な地盤改良工事が必要だ。沖縄防衛局の狙いは、現段階でK8護岸を完成させるのではなく、半分だけ造り埋め立て土砂を陸揚げする桟橋として使用することにある。現在はK9護岸一つからしか土砂の陸揚げができないため、辺野古側の埋め立て工区での土砂投入がはかどらない。そのために桟橋を増やそうとしているのだ。
桟橋が増えれば1日に陸揚げし、海に投入する土砂の量が倍加する。辺野古の海・大浦湾のこれ以上の破壊を許さないために、N4~K8護岸に至る工事を止めることが喫緊の課題となっている。しかし、マスコミを含めてその重要性がまだまだ知られていない。この日の大行動は、その重要性を伝えるためにも行われた。
辺野古先近くに張られたオイルフェンスのそばで海上抗議集会を開いた。私もマイクを手にしたが、1995年9月4日に発生した米兵3人によるレイプ事件について話した。辺野古新基地建設問題のすべてはこの事件から始まったのだ。
上の写真は1995年9月8日付琉球新報夕刊に載った事件の第1報である。最初はこんな小さな記事だったが、それでも大きな衝撃を受けた。本来ならこの事件のあと、沖縄人も日本人も大人たちは米軍基地撤去のために力を尽くすべきだった。しかし、それを成しえないまま今、事件が起こった場所から近距離の辺野古で新基地建設が進められている。
事件の被害者と家族は今の沖縄の状況をどう見ているだろうか。この24年間、そのことが常に頭の隅にある。本当に苦しんでいる人は言葉を発することすらできないだろう。事件のことを忘れたような顔をして、辺野古では新基地建設が強行されている。事件が起こった沖縄島北部に新たな基地を造る。この腐敗と堕落が許せないがゆえに、この24年間、自分なりに行動してきた。
辺野古の海、大浦湾で何が起こっているか。そのことを自分の目で見たこともない知識人たちが、県民投票をめぐっていろいろ発言している。インターネットが普及して、お手軽に情報が入手できる。しかし、難儀をしなければ得られない認識もある。図書館に行って1995年当時の新聞をめくり、辺野古の海に出てカヌーを漕ぎながら考える。そういう努力も大切だ。
集会のあと、カヌーでフロートを越えてN4護岸を目指した。大行動の時は海保も警備に力を入れるので、かえって現場に近づくのは困難になる。大型のオイルフェンスの中にカヌーを入れるのも簡単ではない。中には入れるのに失敗して海に落ちる人もいたが、みなできる限りのことをやっていた。
16日は昼食後、再び辺野古岬のN4護岸建設現場に出た。しかし、午後は捨て石の投下は行われておらず、クレーン車も陸上部に片付けられていて、護岸上では作業員が測量を行っていた。隣接するN3護岸との比較からも、N4護岸は目的の長さ(135メートル)に達したようだ。
現場は浅い岩場で、ほとんど陸上と変わらない作業だったので進行が速い。来週は被覆ブロックの設置が行われ、続けてK8護岸が着手される。県民投票で騒いでいる間にも、辺野古の海、大浦湾では日々工事が進んでいる。上の写真でカヌーが抗議している場所も、このままでは護岸の内側になってしまう。
15日(金)にゲート前に行って、大行動に船に乗って参加してほしい、と呼びかけをした。それに応えて予定の時間に浜のテントに行ったが、乗船者が多くて乗れなかった人がいたとのこと。15日までは空き定員がかなりあリ、それで呼びかけをしたのだが、当日になって午後の予定者が午前に回り、空きがなくなったようだ。わざわざ浜のテントまで足を運んでくれた方には申し訳ないことをした。どうもすみませんでした。