8日は午後2時半から那覇地裁で、米軍基地内に長時間拘束された件で国を訴えている裁判の審理があった。多くの人が傍聴に訪れてくれ、有り難かった。新年度に入り裁判長が変わったので、意見陳述の機会があり10分ほど話した。以下に陳述として読み上げた文章を紹介したい。
【陳述内容】
現在、辺野古の海では沖縄県民の反対の声を踏みにじり、埋め立てに向けた護岸工事と仮設道路の工事が強行されています。これら辺野古の新基地建設工事に対し、私がなぜ反対しているかについて、最初に話したいと思います。
私は過去2度、名護市辺野古区に住んだことがあります。1度目は1989年の春、同区にある久辺小中学校で短期間の臨時教員を務めた時でした。ある日、教室で授業していると、砲弾の発射音や戦車の走り回るキャタピラの音が室内に鳴り響き、話し声も満足に届きません。驚いている私に生徒たちは、「先生、こんなのはしょっちゅうだよ」と言っていました。このような教育環境に置かれている学校があることを知り、愕然としました。
1991年に2度目に住んだときも、米軍基地と隣接した地域が受ける生活への影響を実感しました。朝、窓ガラスが震えるほどの激しい音に、近くで道路工事でもしているのか、と思ったら、砲弾が爆発する音でした。ヘリの爆音に窓の外を見ると、ロープで兵士や大砲を吊るした米軍のヘリが飛んでいく。そういう光景を何度も目にしました。
同じ名護市に住んでいても、西海岸と東海岸では生活環境が違います。米軍基地がある東海岸地域に住んではじめて、米軍演習の被害を肌で知ることができました。米兵相手の飲み屋街を含め、そこには1950年代、60年代から変わらない「基地の街」の実態があります。沖縄島西海岸では大型ホテルが次々とできて観光業が発展する一方で、東海岸は基地があるゆえに発展から取り残されている、という印象を持ちました。
米軍基地の集中は経済発展を阻害するだけでなく、米軍による事件、事故の多発化ももたらします。そのことをまざまざと示したのが、1995年9月に発生した3人の米兵によるレイプ事件でした。近所の店に買い物に行った小学6年生の少女を、米兵らは車で拉致し犯行に及びました。事件が起こったのは辺野古区と同じように米軍基地の「門前町」と言っていい金武町でした。
同事件は沖縄県民に衝撃をもたらします。事件を糾弾する大規模な集会やデモが行われ、県民の怒りに日米安保体制が揺らぎかねない、と危機感を抱いた日米両政府は、普天間基地の返還を目玉とする米軍基地の「整理・縮小」を打ち出しました。しかし、その実態は「返還」とは名ばかりで、新たな基地を造って県内に「移設」するものでした。事件を利用して、老朽化した施設を最新鋭のものに作り替えるのが、日米両政府の狙いでした。
普天間基地の「移設」先として浮上したのは、名護市辺野古区でした。事件が起こった金武町から車で半時間もかからない場所に、新たな米軍基地を造ろうとする。その無神経さに怒りが込み上げました。
先に述べたように、辺野古区にはすでにキャンプ・シュワブがあり、基地の被害を日常的に受けています。子どもたちの教育環境すら破壊されています。そこに新たな基地を造れば、住民の生活はどうなるのか。米軍の事件・事故に巻き込まれる危険が増大するのは明らかです。ヤンバルと呼ばれる沖縄島北部に生まれた者として、黙って認めることはできません。
ことは辺野古区民、名護市民だけの問題ではありません。国土面積の0・6パーセントしかない沖縄に、米軍専用施設の70%が集中しています。この現実を改善しようとはせず、あくまで米軍基地を沖縄県内でたらい回しする。日本政府による沖縄に対する差別政策は、沖縄県民全体の問題です。また、沖縄県民に米軍基地の負担を押しつけ、「法の下の平等」を侵し続けている日本人全体の問題でもあるはずです。
そのような考えに立ち、1997年にこの問題が表面化してから20年以上、自分なりに反対運動にかかわってきました。2014年8月からは辺野古の海・大浦湾でカヌーを漕ぎ、海上から新基地建設に抗議してきました。その過程で2016年4月1日に辺野古岬付近で、米軍憲兵隊に所属する沖縄人の軍警備員に拘束されました。
一部の新聞報道では、私が基地内に上陸したかのように書かれていました。しかし、そういう事実はありません。軍警備員に暴力的に海から引きずり上げられ、押し倒されて拘束されました。それまで辺野古の海で私が行ってきたのは、海底ボーリング調査に対する抗議であり、米軍基地に上陸して侵入する理由などまったくありません。軍警備員が上陸、侵入を言っているなら、拘束を正当化するための偽りです。
そもそも、2016年4月1日段階では、埋め立て承認の取り消しをめぐって行われていた国と沖縄県の裁判が和解に至っており、海底ボーリング調査も停止していました。そのため海上保安庁もカヌーや抗議船に対する規制を行っておらず、海上に張られたフロートを越え、大浦湾に設置されたスパッド台船やクレーン付き台船のそばまで行っても、海保からは何の注意もありませんでした。当日、いつもなら警備についている海保のゴムボートが辺野古岬付近にいないほど、現場海域では緊張感が薄らいでいました。
そういう中で軍警備員が先走って拘束したため、海保の対応も遅れたのではないかと思います。辺野古岬近くにあるアルソック(綜合警備)のプレハブ事務所そばで米軍の憲兵隊に身体検査を受けたあと、憲兵隊の事務所に連れていかれ、8時間近く基地内で拘束が続きました。
4月に入っているとはいえ、濡れたウェットスーツを着ていたので、事務所の中では体が冷え、寒くてたまりませんでした。事務所に入った当初は、長椅子に座っている玄関ロビーの床が濡れるほどでした。着替えることもできないまま長時間の拘束が続き、寒さに耐えるために体を動かし続けていました。通訳を通して何度か寒さを訴えると、米兵が温風器を持ってきましたが、廊下は広いので保温効果はありませんでした。
米軍の通訳には、弁護士とヘリ基地反対協に連絡するように何度も要求しました。しかし、名護署が引き取りに来ない、と困っている様子で、外部との連絡が取れない状態が続き、いったいどうなるのかと不安を覚えました。その間、拳銃を腰にさした米兵と2人、玄関ロビーや廊下で向かい合っている状態が続きました。あとで、外では弁護士や国会議員の皆さんが、私の行方を捜して手を尽くしていたことを知りましたが、米軍基地内が治外法権の状態に置かれていることを実感しました。
法律に関して専門知識を持たない市民にとって、拘束された際に弁護士と相談するのは最優先されるべき重要な権利です。米軍基地内ではそれすら許されていない。そのため、自分がどのような状態に置かれているかを外部に伝えることもできません。濡れたウェットスーツを着たまま長時間拘束され、もし体調不良をきたしていたらどうなっていたのでしょうか。適切な対処が施されたかどうか、疑問を覚えます。
海上保安庁がすみやかに身柄を引き取るのは、市民と弁護士との接見を可能にすることはもとより、市民の心身の健康状態を把握し、体調の急変に対処するためにも必要なはずです。自分たちの都合で市民を8時間近くも米軍基地内に放置し、異常な拘束状態を続けさせたことは許されません。
今回の件では、日本国内において米軍基地が日本の法が及ばない、治外法権の場所となっていることが浮き彫りになりました。どうして米軍基地の中では弁護士と面会できないのでしょうか。今回のように日本の司法警察にすみやかな引き渡しが行われなければ、拘束された市民は外部との連絡が取れないまま放置されていい、というのでしょうか。
弁護士や国会議員が手を尽くしても、基地内に連れ込まれた市民がどうなっているか、8時間近くも分からない。これは恐ろしいことではないでしょうか。米軍基地のフェンスには、基地内に侵入した者は日本の法律で罰せられる、と書いてあります。一方で、米軍基地内に拘束された市民は、日本国憲法で保障された権利を行使できない。米軍には様々な特権を与えながら、日本の市民は弁護士と面会することさえできない。このいびつな構図を改めるべきです。
そのためにも、「緊急逮捕」に関して刑特法が特別扱いとなっている問題を放置してきた国の責任が問われるべきだと考えます。米軍基地に関しては軽微な罪でも「緊急逮捕」できるというのは、米軍の特権を過重に認め、日本の市民の権利を制約するものであり、是正されるべきです。
辺野古の海では現在、護岸工事が進められ、7月にも埋め立てに向けた土砂の投入が行われる、と報道されています。沖縄県民がどれだけ反対しようと、海保や機動隊を前面に出して力でねじ伏せる。日本政府はあくまで沖縄への基地押しつけをやめず、差別政策を続けたいようです。
しかし、沖縄県民がそれに屈することはありません。沖縄戦から73年になろうとしていますが、この間にどれだけの県民が、基地あるが故の犠牲となったか。去る4月28日は、元海兵隊員の米軍属に殺害された二十歳の女性の命日でした。遺体が遺棄された恩納村の山中には、今でも多くの花束が供えられています。これまでに犠牲になった人のことを思い、新たな犠牲者を生み出さないために、新基地建設を許してはならないのです。
古くなった基地はいずれ撤去される可能性があります。けれども、新しく造られる基地は、これから何十年も維持されます。普天間の子どもたちの上を米軍機が飛ぶのはいけないが、辺野古の子どもたち、名護市や宜野座村の子どもたちの上は飛んでいい、と言うのでしょうか。日本の安全のために沖縄を犠牲にする、という差別構造を、司法を含めて日本社会は1日も早く終わらせるべきです。