大迫亘著『薩摩のボッケモン』(現代ブック社)は1974年12月に初版が発行されている。同書カバーには大迫氏の略歴が次のように記されている。
〈明治42年12月26日鹿児島県に生まれる。昭和7年東京歯科医学専門学校(現在の東京歯科大学)を卒業し同年沖縄県那覇市で石門歯科医院を開設する 昭和19年沖縄第32軍司令部軍医部に勤務して長参謀長の特務員として活躍する 昭和21年沖縄より復員 昭和25年三井鉱山病院に勤務 昭和29年鹿児島医大付属病院口腔外科教室に研究生として入室し昭和30年鹿児島市にて歯科医院を開業し現在に至る〉。
また同書表紙には書名、著者名のほかに次のように記されている。
〈奇想天外な暴れ者!沖縄戦では牛島・長両将軍の割腹を目撃!〉
派手な謳い文句そのものの内容で、実に興味深く面白い本である。大迫氏は沖縄戦の前、那覇市で昼間は歯科医を開業し、夜は敬天一心会とという〈天皇中心主義の団体〉をひきいて暴れ回っていた。そして、第32軍司令部の次級副官・坂口大尉に目をかけられ、長参謀長の特務員になったという。
〈次級副官で、長参謀の片腕として第三十二軍に辣腕をふるい、凄い勢力をもっていた坂口大尉は、軍が直接手をくださない仕事を秘密裏にすみやかに処置できる民間人をさがしていた。私に白羽の矢が立った理由の一つとしては、医師であり、患者も門前市をなすといった繁盛ぶりで、評判だったということがあげられる。が同時に、ある半面は全く二重人格的存在で、悪名高く敬天一心会とよばれる天皇中心主義の団体を牛耳る男でもあったということである。昼は温厚で誠実な歯科医師であり、夜は一心会の同志を自由自在に動かす男でもあり、夜の世界は私にとっては全く別の世界であった。
私が東京歯科大学出身の歯科医師であることは真実であり、夜の私と同一人物か、別個の人間か誰も知らなかった。おそらく那覇市に居住する大多数の人達は、全く別人であると考えていたと思う。現在では、このような変則的な生活は許されないし、社会的にも嫌悪されて追放の憂き目をみたかもしれない。が、沖縄決戦を目前にひかえた当時としては、日本のために生命を投げ出すことが日本男児の面目であり、男一匹の値打ちであると考えた。あらためてこういうことをいうのは面映ゆいが、沖縄決戦の裏面に芽生えた雑草の一本と考えていただきたいと思うのである〉(P77〜78)。
その特務活動の一つとして大迫氏は、坂口副官の命令を受けて偕行社を設立したという。沖縄戦の半年前のことである。
〈第二の仕事は、津嘉山という部落に将校の慰安の目的で階(ママ)行社を設立することだった。とくべつ困難な仕事でもなく、日数も驚くほど短時日で完成した。昭和十九年十月四日頃、坂口副官の命令で白の半ズボンに黒眼鏡という、その頃流行の姿をして北九州に飛んだ。そして特務員として活躍を開始したのである。
私が那覇市の小禄飛行場から、福岡の雁の巣飛行場において開札口を出ようとすると、私服の憲兵に不審尋問され一室に連れこまれた。その態度があまりに横柄であり、職務を笠に傲慢無礼だったので、私の胸は怒りでいっぱいになった。
「私は忙しいのだ。早く用件を済ませてくれ」
というと、憲兵はいよいよ立腹し、西部軍の憲兵本部に連行するというので、私も事面倒と考えた。そこで、ポケットから万一の場合を考えた坂口副官の取りはからいによる、長参謀長閣下の捺印のある名刺を出してみせた。沖縄軍司令部参謀長長勇の筆跡と、象牙の大きな捺印のある名刺である。憲兵はびっくりして、私が有名な長参謀の特務員であることを知り、急に言葉つきも丁寧になり、くどくどと詫びながら敬礼して立ち去った。私の仕事の一つは津嘉山の階行社の雇員、すなわち、コック、仲居、芸者総数約二十名を大分県別府市の錦竜館から募集して、沖縄まで飛行機で輸送しなければならなかったのである〉(P85〜86)。
大迫氏は、〈コック一名、会計一名、仲居一名、芸者十四名〉(P88)を採用し、飛行機で沖縄に連れてきて偕行社を開店する。〈開店第一日目は、砲兵団の和田閣下が中将に進級された祝賀の宴で幕が切っておとされた〉(P88)。
その偕行社の女性たちが首里の第32軍司令部壕に入るのは、大迫氏によれば1945年5月4日の総攻撃の後という。
〈昭和二十年五月四日の夕暮れ、那覇港に停泊中の敵艦船に対する勇猛果敢な自爆を望見するため牛島司令官、長参謀長に従って葛野高級副官、坂口次級副官、吉野副官、佐々木副官並びに私達は展望台に登って那覇港を眼下にみた〉(P122)。
そのあとの祝宴で大迫氏は、長参謀長に偕行社の女性たちがどうしているかを問われた。大迫氏が知らない旨答えると長参謀長は、様子を確かめて〈その後の処理はお前の判断にまかせる〉(P123)と対処を指示した。翌朝、大迫氏は偕行社を訪ね、女性たちを首里の〈閣下の官邸〉連れてきて一泊させた。そして、翌5月6日の午後3時頃に全員を連れて第32軍司令部壕に入ったという。
〈三時近くになったので、全員を連れて壕に入った。兵隊達が異様な姿の連中に眼を見張っているのが、私には面白く感じられた。闇黒の中にパッと電燈がついたように、美しい女達の集団が壕の中に甘い香をまきちらし、妖しい雰囲気をかもしだした。長閣下は、ちょうど愛用の茶ノ湯の名器で坂口副官を相手に酒宴の最中だったが、彼女達をみると、
「おお、来た、来た。坂口、美しい女達がこんなに集団でくると壮観だね。お前達のことを忘れていて、すまん、すまん。坂口、この者たちの処置は考えてあるか」
「ハイ、管理部で炊事の方を担当して貰います。玉倶楽部の女達も一緒ですから、賑やかで女達にとっても格好の仕事と思います」
「そうか、お前達は今日から軍属として働くのだ。なるべく美味しいものを食わせてくれよ。ところで最後に全員して炭鉱節でもやったらどうだ。アハハ……」
女達は嬉しくて泣きだしたいような表情をしていたが、管理部の兵隊の案内で去っていった。牛島司令官は微笑しながらその後姿を眺めておられた〉(P125〜126)。
坂口大尉がいう〈玉倶楽部の女達〉とは、辻の若藤楼の女性たちである。八原博通著『沖縄決戦』や上原栄子著『辻の華 戦後篇上』でみたように、第32軍司令部壕にはすでに辻の若藤楼の女性たちが入っていた。
大迫氏は5月6日に偕行社の女性たちを司令部壕に連れて行ったとしているが、八原『沖縄戦記』ではこうある。
〈神参謀の東京派遣と相前後して、首里洞窟内を彩っていた女性たちの撤退が始まった。五月四日の攻勢失敗後は、若い娘たちもいつしかなり振りかまわぬようになった。化粧どころか、顔に泥のついたままの者もいる。将兵は首里の陣地を枕に討ち死にすべきであるが、彼女たちをここで殺すには忍びない。速かに戦線後方に退けて、悲劇の舞台外において静かに傷兵の看護をさせ、その最後の運命は天に任すべきであろう。
女性総撤退の命、全洞窟に伝わるや、彼女たちの大部は大声をあげて泣いた。「私たちは、戦の始まる前から皆さまと一緒に死ぬ覚悟だったのに、この期におよんで、後方に退れとはあまりに酷い」、「私たちは、もはや女とは思っていない。皆さまが女と思われるから、後退などと申される」など美しい不平や抗議が続出する。かつて、沖縄の島に秋風薫ずるの日、賑やかに開幕した演芸大会の舞台に美しい舞い姿を競うた彼女ら。春日麗らかな午後のひととき、私の宿舎の庭に椿の花をこっそり手折りに来た無邪気な人々。いざさらばである。両将軍は身辺の品を、彼女らに与えられた。特に参謀長は、日本に五つしかないという自慢の茶器も手離された。
夕陽与座岳に没し、砲声暫し衰えた五月十日の夕まぐれ、娘たち数十名は重いリュックを肩にして、将兵と別れを惜しみつつ、首里の山から繁多川の谷間に姿を消して行った。
「敵弾で、ひと思いに死ぬのはよいが、大切な顔にけがをするな」と誰かがとばした冗談に、緊張した一行の空気は、暫し和らぎ、その前途を祝福するかのようであった〉(P264〜265)。
〈女性総撤退の命、全洞窟に伝わるや〉とあるが、幕僚部で勤務していた〈沖縄の中流以上の家庭の娘さん〉(P123)とともに、偕行社の女性たちも〈娘たち数十名〉の中に含まれているとしたら、5月6日に司令部壕に来て10日には出たことになる。偕行社の女性たちはごく短い期間しかいなかったのか、何月何日に司令部壕に来て、何日に出ていったか、さらに検証が必要である。ただ、偕行社の女性たちが司令部壕内で炊事や壕掘りの作業に従事していたことは、大迫氏や八原氏など複数の証言があり、間違いないことであろう。
渡久山朝章著『南の巌の果まで』には、首里から摩文仁に撤退する途中、司令部壕の第六坑道で一緒に壕掘りをした〈上田さん〉という女性の姿を見かけたことが記されている。
〈半壊した民家の石垣の傍を通ると、次の路地から別の一団が出て来た。
兵の叱咤の声にゾロゾロ随いて行く一風変った一群だ。
軍服こそまとまってはいるが、それは夜目にもはっきりそれと分る女の集団が数人の兵士に伴われて南下中である。
負傷者をかかえたこの一団は、よろけ、まろびつ、辛うじて左右の足を交互に前後させているという状態だ。
この一団を右にして追い越して行こうとすると、その中の人々が何処かで会ったような気がしてならない。
一人ひとりを右に見ながら追い越して行くと、その群の先頭近くを歩いて行く人にハッと気づいた。「上田さんではないか!」と思わず声が出かかったが、ゴクリと生唾と共に出かかった声を呑み込んだ。紛れもなくその人は上田さんである。けれども一瞬の内の分別が彼女に声をかけさせるのをためらわせた。私たちの事情も知らない兵士に引率された、慰安婦に、若い青年学徒が声をかけるなどもっての他だと思ったからだ。そもそも彼女たちとの出会い頭から将校にドヤされたのだ。
上田さんもこちらに気がついたらしく、歩みを止めた時、「急がんか、この阿女!」という罵声に驚き、双方とも向き直し、そのまま進む。
「こうだから女共は処置なしだ」と言う兵隊の吐き捨てるような声を聞きながらふり返り、軽く頭を下げていく。相手もジーッとこちらに視線を向けて歩いている。
軍人慰安所で春をひさぎ、挙げ句の果は壕掘り、そして今、この姿である。
負傷者も混じっている。それにしても人数が少い。随分犠牲者も出たかも知れない。一体、今までどこで、どうしていたことであろう。
共に軍司令部壕の構築に従事していた頃、泥にまみれた彼女たちの悲痛な表情、わけても薄暗い裸電球の淡い光に照らされた上田さんの悲しそうな目が眼前にちらついてならない。
彼女たちとの共同作業は、日数からすれば決してそんなに長いものではなかった。けれども私の印象に強く残っている〉(P155〜156)。
〈奈良県から来たという上田さん〉(P71)という女性は、偕行社の芸者だった可能性がある。渡久山氏は〈上田さん〉を見かけただけで、声をかけることもできずに別れ、再び会うことはなかった。〈上田さん〉が摩文仁の戦場で生き延びることができたかどうかは不明である。
大迫氏も偕行社の女性たちのその後については記していない。