八原博通著『沖縄決戦』によれば、首里から摩文仁に撤退したあと、6月7日の夜に〈首里司令部で一緒だった翁長、仲本、金城の三人娘が帰ってきた〉(P341)。そして翌8日の夜に〈大きな荷物を背負った娘たち総勢約三十名〉(P342)が摩文仁の司令部壕にやってきた。その中には辻の若藤楼の女性たちもいて、大迫氏は『薩摩のボッケモン』で次のように記している。
〈玉倶楽部で軍の慰安のために働いた若藤楼の人達は全員管理部で炊事を担当し、必死に働いていた。初子は坂口副官の愛人であり、菊子は高級副官の愛人であった。このほか初子の母親の三人が麻(ママ)文仁の壕にいた事実を語ることは、両副官の霊を傷つけることではないと考える。人間として愛情を持つことは、けっして罪悪ではない。軍人も人間であり、愛人がいたからといって沖縄戦の最後が汚れたものではけっしてないということである。むしろ沖縄決戦のかげに咲いた花として、これらの女性たちを賞しても、けっして両副官の最期を冒瀆することにはならない〉(P148)。
大迫氏によれば、若藤楼の初子は次級副官・坂口勝大尉の愛人であり、菊子は高級副官・葛野隆一中佐の愛人であったという。そして、抱親と初子、菊子の三人は自ら死を選び、大迫氏が〈死の手伝い〉をしたと記している。なお、上原栄子著『辻の華 戦後篇上』では、初子と一緒に死んだのは菊子ではなく富子となっている(P73)。
以下に『薩摩のボッケモン』から辻の女性三人の最期の様子を引用する。
〈閣下自刃の六月二十二日の午後、私達特務員は両閣下の屍体の処理に万全を期すため、安全に埋葬した。そして軍司令部の機密書類の破棄と焼却をし、両閣下の遺品を焼いた。軍司令部の壕内は限られた人数だったので、淋しさはひとしおだった。若藤楼の初子、菊子、母親三人は、坂口副官、葛野副官と最後の別離を惜しみつつ、小さい声で話し合っていた。私たちはそこから遠慮するようにして脱出行のための準備、その他の整理をいそいだ。
玉倶楽部にいて現在管理部にいる五、六人の女達に、三人の女との別離の挨拶をさせるため根呂銘を管理部に使いにやった。しばらくして女達がやって来て、抱き合ったり泣いたりの愁嘆場がつづいた。皆泣きながら小さい声でとぎれとぎれに話していた。
「お前達は長い間いろいろご苦労でした。ぜひ生きて私達のために線香の一本でもあげて下さい。それから借用証書は全部お前達に戻すから破って頂戴。ここにある全部の金と、預金通帳もあげます。この金が使用できるときは使って下さい。全部で仲良く分配するのですよ」
「姉さん、有難う。お母さん、有難う」
「元気で幸福に暮らしてね。戦いが終わったのだから、管理部の壕でしばらく生活していたら危険もなくなるし、早く沖縄の人が集まっている百名部落にいって幸福な生活に入って下さい」
「姉さん達はどうなるの」
「私達は幸福よ。好きな人と一緒にあの世にいって暮らすのよ」
と初子が美しい顔に微笑を浮かべて冗談にまぎらせていえば、女達は一緒に抱き合って泣いた。
「早く帰ってみんなによろしくいってね。私達は幸福で、何の心配もないからと伝えて頂戴」
坂口副官は元気そうに、
「お前達も大変だったね。しかし、戦争は終わったよ。しばらく管理部の壕に生活して米軍が引き揚げてから、ゆっくり部落に移動すれば心配ないよ。元気で幸福な結婚をするんだよ」
坂口副官も感傷的になっているのか、常日頃にないやさしい言葉だった。彼女達は別離を惜しみつつ、目を泣きはらして帰っていった。初子、菊子も充分副官との別れを惜しんだのか落ち着いた様子だった。愛しあった二人の副官と永久に別れるのもあと数分と迫っているのに、妖しい美しさを身体から発散させつつ着替えをすませ、両脚を赤い腰紐でしっかり結び、三人枕をならべてやすんだ。三人とも合掌している。葛野、坂口両副官はそばによりそい、
「明日二十三日朝、自決するから三途の川で待っていてくれ」
と二人は合掌して眼をつむった。私は五瓦の注射器にモヒ、パントポンを混じ、空気を入れて静脈に急激に注射した。そして顔には白いガーゼをかけてやると、三人とも一分足らずして昏睡状態におち入った。私は耳に拳銃を当て、引き金をひき、完全に死の手伝いをしたわけで、心は悲しみとみじめな感情でいっぱいだった。初子と菊子は死ぬときの女の身だしなみであろう。化粧した顔は生きているようで、あやしい色気さえ感じられた。足首と太腿を細帯で縛った気の使い方は、遊女といっても日本女性としての誇りであり、男に劣らぬ根性をもっている。それと同時に、古武士の妻のように静かに死につく態度は、後生に語り伝えるに足るものと思われる。
その夜は三人の女性の遺体を囲み、通夜をして、残っている酒を缶詰を肴にして飲み、夜更けまで語りつづけた。葛野少将(ママ)、坂口副官、佐々木副官、魚住、古方、根呂銘、板場の田中、私と、屍体となった三人の女性が軍司令部の全員だった。その夜、坂口副官は初子に、葛野副官は菊子に添い寝して翌日六月二十三日の午前十時頃朝食をすませ、葛野、坂口、佐々木副官は牛島、長閣下の遺体を葬ってある洞窟に最後の礼拝をし、服装を整え、拳銃を持って各自、壮烈なる自決をとげた。私達特務員は脱出の準備も終わり各副官の通夜をして、六月二十四日夜半三時頃脱出する事に決定した〉(P156〜158)。
大迫氏は若藤楼の三人の女性にモルヒネとパントポンを混ぜて空気を入れて注射し、ピストルで撃ったという。三人の自殺を幇助したわけで、軽々しく書けることではない。辻の女性たちの会話が、そこまで細かく記憶していたのか、という気もするが、女性たちの死に方は上原『辻の華 戦後篇上』の記述と一致している点が多い。
〈抱親様と初ちゃんと富子は潔く、死なばもろともと、自決を申し出たそうです。血のつながらぬ遊女たち親妓三人が、赤い腰紐でひざをくくり、毒薬を飲んだのです。並んで寝て、生き返らぬようにと、注射を受けながら安らかに死んでいきました。その生から死へと向かう間、初ちゃんと生死を契った副官殿が添い寝をしていたと、お姐さんは言うのです。
初ちゃんたちが自決した後、最高司令官殿の最期を見届けた副官殿も自決しました。…〉(『辻の華 戦後篇上』P73)
摩文仁の司令部壕にいて生き残った若藤楼の〈お姐さん〉から、上原栄子氏が聞いた話である。ここではピストルで撃たれたことは触れられていないが、前に見た吉村昭「剃刀」では以下のように描かれている。
〈「他の上官殿たちは、すべてピストル自殺した。軍司令官殿と参謀長殿の首は、吉野中尉殿がどこかに埋めたらしい」
木村上等兵は、沈んだ声で言った。そして、ふと思いついたように、
「辻の女も二人、抱え親の婆さんとともにピストルで射殺された」とつけ加えると、壕の奥を振返った〉(『総員起シ』P173)。
以上見たように、大迫氏の『薩摩のボッケモン』は、首里や摩文仁の司令部壕に辻の若藤楼、偕行社の女性たちがいたことを明確に示している。さらに、若藤楼の女性たちの最期や副官たちとの関係も詳しく記している。第32軍司令部壕の説明板問題を考えるうえで重要な資料の一つである。
なお、摩文仁の司令部壕で軍属の女性が軍医によって毒殺されたことは、大迫氏が記した若藤楼の3人以外にも、八原『沖縄戦記』では以下のことが記されている。1945年6月22日午後のこととされる。
〈皆の話を総合すると、秋永中尉は山頂に達するや、直ちに数名の部下衛兵とともに手榴弾を交えてことごとく殪れ、第三陣を承って駆け上がった池田少尉以下十数名は山頂に達するに先だち死傷して壕底に転落し、さらに手持ちの手榴弾が爆発して、損害を大きくしたようだ。医療室を覗くと、負傷兵にまじって二人の女性が寝棚に横たわっている。身体も顔もひどくむくみ、誰やら見当がつかぬ。嘉数軍医中尉が、黙々と小刀で腕を切開し、動脈を引っ張り出している。青酸加里の注射でもするのであろう。傍の者に聞くと与儀、崎山の両嬢ではないかと言う。嗚呼、花のかんばせ今いずこ、と嘆いてやりたい。
私が女性の参謀部出入りを厳禁したために、狭くて居場所のない彼女らは、よく垂坑道の上り口に佇んでいた。そして犠牲になったかのかと思うと、自責の念に耐えない〉(P380〜381)。
創価学会青年部反戦出版委員会『戦争を知らない世代へ?沖縄編 沖縄戦−痛恨の日々−』(第三文明社)は、1975年6月23日に発行されている。その中に〈衛兵司令の中の補充兵十二名の長として〉首里と摩文仁の第32軍司令部壕にいた新垣隆生氏の「逃げまどった司令部」と題する証言が収められている。
〈六月二十日、高級参謀大佐と私は大本営へゆけと命令が出た。
アメリカは山の上でサクガン機で穴を掘って爆弾を仕掛けて、爆発させるしかけを準備していた。
六月二十三日は玉砕で総攻撃であった。二十三日夜中に司令官が全部に突撃の命令があった。兵隊はいろんなものを持って壕から全部出た。牛島司令官は壕の前で自殺した。長参謀長はそれに続いた。それぞれについていた副官は参謀の首をもってどこかにいってしまった。大佐と私は両方の遺体だけ中に運んで壕の中のねていた所に首もないままに、白いカバーをかぶせておいた。それから大佐と私は拳銃と手榴弾をもって外に出た。
二十二日、同じ司令の壕の中では女子軍属が「敵の捕虜になるよりは死んだ方がいい」と嘉数軍医に頼んで青酸カリ注射を射たせた。五人の女子は五分間苦しみもがいて死んでいった。
その後すぐに嘉数軍医は壕から出ていって行方をくらまし、いまだに逢ったことがない〉(P115〜116)。
新垣氏のいう〈五人の女子〉が誰と誰を指しているか、検証が必要である。
首里から南部へ撤退するとき、移動できない重傷の兵たちの多くが毒殺されたり、手榴弾を渡されていった。摩文仁の司令部壕でも、青酸カリを注射されたり、銃で撃たれて死んでいった女性たちがいたことを忘れてはならない。