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資料:山川泰邦氏のエッセイ

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 1984年発行の沖縄エッセイストクラブ作品集?『群星』に山川泰邦氏の「従軍慰安婦狩り出しの裏話」と題したエッセイが収められている。
  山川氏は1908年(明治41年)沖縄県国頭郡本部町生まれ。琉球警察学校長、那覇警察署長、立法院議員などを務めた。『秘録沖縄戦記』(読売新聞社)の著者としても知られる。1991年(平成3年)死去。
 山川氏のエッセイを読むと、日本軍による慰安所開設に対して、辻の女性たちがさまざまな抵抗をしたことが分かる。その一方で、借金に縛られ、差別や偏見から家族、故郷に戻ることができず、抱親との義理を重んじて慰安所へ行き、軍と行動を共にした女性たちもいたのである。
 山川氏はほぼ同じ内容のエッセイを「慰安隊員の動員」と題して、1987年5月30日付沖縄タイムスの「オピニオンのページ」にも寄せている。併せて紹介したい。

〈サイパンが玉砕した昭和十九年七月、私は警察部特高課から那覇警察署の監督警部を命ぜられ、壮途につく気持で赴任した。
 その頃から沖縄守備のためと称し、日本軍の大部隊が続々押しかけてきた。
 その後辻遊郭は軍人軍属が横行、遊女をめぐる軍人同士の打ちあい斬りあいが、毎晩のように起きた。
 三千の美妓を抱え、絃歌さんざめく紅燈の町辻遊郭は、かつては沖縄唯一の社交場で、政治家の駈引所であり、商人の取引所であり、田舎から出張した村長や校長の宿泊所であり、男たちのオアシスと言われていた。
 戦争の嵐は辻遊郭を血なまぐさい巷に変えた。たまに市民が登楼、彼女たちのつまびく三味線の音に情緒を味わい、泡盛を酌み交わしていると、日本刀をガチャつかせ、女を出せと暴れる軍服の大虎小虎に、市民は追い出されたもんだ。
 各部隊は競うて慰安所を設置、一ヶ所十五人、一個連隊で二ヶ所を設置、全駐屯部隊で五百人の慰安婦を辻遊郭から狩り出した。
 戦局の悪化で、彼女たちが慰安所行きを避けるようになった。その対策に部隊が奇妙な集会を催す仕儀にあいなった。
   慰安婦狩り出しの集会
 嵐(十・十空襲)の前の昭和十九年の夏、ある部隊の副官が那覇警察署にやってきて、「わしの部隊には慰安所が無い、慰安婦も兵力じゃが、これではわが部隊の士気にかかわる。暑長でぜひ世話を頼む」と要請した。
 具志堅署長が「辻には事務所がある。区長の喜瀬氏に頼むように」と話した。
 辻の事務所に押しかけた副官は、高飛車に「女を全部集めるように」と強く命じた。
 区長の喜瀬氏がびっくりして、あわてて呼び出しに出かけた。暫くすると、モンペ姿のアンマー(遊女の幹部)たちが続々馳せ参じた。大方集まったところで。
 副官が日本刀を握り、壇上から「こんかいの戦争は皇国の興廃と沖縄の運命をかけた戦いぢゃ。各自の持ち場でご奉公の誠をつくし、国民総動員で勝ち抜かなければならぬ。お前さんたちに鉄砲で戦えと言うのではない。慰安所で兵隊の士気を鼓舞し、勇躍出動するように激励してくれ」と切り口上でぶった。会場はシーンとして、アンマーたちの表情は複雑であった。
 その頃すでに兵隊相手の慰安婦の苦しみが、辻遊郭に知れわたっていた。それ故部隊の勧誘も威令も効果がなく、芸妓、酌婦の廃業願いが警察に殺到した。なかには知名士の善処要望の手紙を持参した者もいた。那覇警察署では願いに沿うて断固として善処した。
 やがて軍から那覇警察署に「病気、結婚その他やむを得ざる理由のほか、廃業まかりならぬ」と厳達がきた。
 窮地に追い込まれた辻の女たちは、廃業の理由をつくる為に奔走した。それは診断書や結婚承諾書を入手することであった。結婚承諾書は大方馴れ合いであった。おかげで多くの遊女が救われた。
 以上述べたことは、米軍の来襲を控え、辻遊郭の遊女をおそった徴用の嵐であり、沖縄決戦の秘話である〉(P330〜331)。

〈第二次世界大戦のころまで、那覇市の辻町に遊郭が有り、公娼が華やかに営業していた。沖縄戦の時、辻の遊女たちを兵力と称して、部隊にかり集めた話を紹介いたしたい。
 昭和十九年十月十日の空襲で灰じんに帰した辻遊郭は有名でした。三千の美妓たちのあでやかで美しい琉装、優雅な琉球舞踊、三味線にのせて流れる哀調をおびた民謡、特に彼女らが毎年旧正月二十日に催した辻祭り(じゅり馬)に、大通りを踊りながらねり歩く姿は、正に百花繚乱なまめかしき限りであった。辻遊郭は県民の社交場であり、商人の取引所であり、政治家の話し合いの場所であり、田舎の村長や校長の宿泊所であった。
 この楽園も、日本軍の沖縄駐屯以来、さまざまなトラブルが起きた。その中から次の遊女のかり出しを特記したい。
 日本軍の各部隊は一個連隊に二ヵ所の慰安所を設け、五百人の遊女を辻遊郭からかり集めた。そこで珍無類の慰安隊員(遊女)かり出しの集会が催される仕儀に相なった。
 ある部隊の副官が那覇暑にやってきて「わしの部隊には慰安所が全然ない。これでは兵士の士気にかかわる、署長で世話を頼む」
 署長が「辻の区長に話してください、きっと世話をするでしょう」
 副官は「区長では頼りにならない、署長から妓(遊女)らに重大時局を説き、皇軍への滅私奉公をすすめてほしい」
 署長が監督警部(山川)に対し「副官を辻の事務所に案内して紹介するように」と命じた。事務所におしかけると、副官が「遊女をすぐ集めるように」と命じた。
 やがてモンペ姿のアンマー(おかみ)や遊女たちが続々集まった。
 副官が日本刀を握りしめて演壇に立ち、「われわれは国民総動員で戦争を勝ち抜かなければならない。お前さんたちに戦場で戦ってくれと言うのではない。辻でやっていることを慰安所でやって、兵士の士気を鼓舞し、勇躍敵陣に切り込むよう激励してほしい」と叫んだ。
 場内はシーンとして遊女たちの表情は複雑であった。副官の叫びも効きめがなく、芸妓、酌婦の廃業願いが警察暑に殺到した。那覇暑は断固たる決意で適宜に処理した。
 やがて駐屯軍から圧力がきた。「病気、結婚その他やむを得ない理由のほか廃業まかりならぬ」と、厳しい通達を受けた。
 この横車に対し、遊女たちは廃業に必要な診断書や結婚承諾書の入手に奔走した。
 しかし結婚承諾書の通り結婚した遊女はほんのわずかで、多くはなれ合い結婚で急場をしのいだ〉。

 山川氏は『秘録沖縄戦記』で、自らがいた那覇市繁多川の壕(自然洞窟)内の様子を記している。その中に一緒に避難していた辻の女性たちの記述があるので紹介したい。

〈洞窟内の生活は、日を追って陰鬱なものになってきた。日に何回も洞窟の入り口に立って空を仰ぎ、日の丸のついた飛行機を待ったが、金属的な敵機の爆音だけが空いっぱいに響き渡るばかりだった。
 天長節も間近に迫ったある夜、同じ洞窟内にいる玉城真和志村長から、島田知事、具志堅署長、私の三人が夕食に呼ばれた。そこへ警察部の情報連絡員の小橋川警部補が、大本営発表を報告にきた。
 小橋川警部補が不動の姿勢で敬礼して、友軍特攻機の戦果を読み始めると、知事はあぐらを正座に直したので、わたくしたちも思わず姿勢を正した。
 もとよりその戦果は、例によって大本営の誇大発表であったが、当時はそのことを知る由もなく、洞窟内にどっと喚声があがった。報告が終わると、知事は人知れず黙とうした。少年特攻隊のいたいけな姿を思い出したのであろう。
 この発表以来、人々の顔も明るくなり、だれからともなく四月二十九日の天長節(天皇誕生日)には、わが陸、海、空三軍の総攻撃が敢行されると伝わった。敵の大軍を沖縄に引き寄せておいて、一挙に殲滅するーーかねて大本営が表明した乾坤一擲の総攻撃が、天長節を期して行われるのだーーこんな情報が伝わったある晩、具志堅署長が島田知事に向かい「勝ったら閣下は、内務大臣まりがいありません」というと、知事は「君はワシントンの警視総監だ」と朗らかに笑い合った。
 わたくしたちは天長節の総攻撃を期待して、演芸会の準備を始めた。
 しかし、将兵はじめ沖縄の人々が神や仏に祈り、待ち望んでいた四月二十九日も、いつもの通り猛烈な米軍の艦砲と爆撃で明け暮れた。わたくしたちはがっかりしたものの、予定通り演芸会は催された。洞窟内に辻の顔役喜瀬さん一家と、踊りの上手な芸妓が二、三人まじっていた。そのうえに三味線、太鼓、衣装なんでもそろっていた。署員の飛び入りもあって、にぎやかな演芸会だった。陰鬱な洞窟内もこのときばかりは、艦砲の爆発音を伴奏にして、久しぶりに三味線や太鼓で踊って浮き立った〉(P175〜176)。

 それは束の間の楽しさに終わった。五月に入って戦局はさらに悪化し、山川氏ら那覇署員、真和志村役場職員らは、日本軍に壕の明け渡しを命じられ、追い出される。以後、壕や自然洞窟(ガマ)、岩陰、墓の中などを転々としながら南部戦線を逃げまわり、多くの犠牲者を生み出すのである。


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