18日は土曜日で参加者が多く、20艇ほどのカヌーが海上抗議行動に参加した。いつものように松田ぬ浜を出て辺野古崎の岩場に入り、そのあと二手に分かれて長島の間から10艇が大浦湾に出た。海上保安庁が言う「臨時制限水域」の境界線付近で海保の船やゴムボートと対峙する形で抗議行動を行った。一進一退をくり返している中でカヌー9艇が海保に拘束されたが、航路付近で解放された。
この日の抗議行動は午前中で終えた。午後12時半が干潮で、キャンプ・シュワブの前の海は潮が大きく引いて、いつも漕いでいる場所でもカヌーの底を砂地がこすりそうになるほどだった。最近はカヌー教室の参加者がかなり増えていて、18日の行動にも10名近くが参加していた。
カヌーの練習を重ねていても、実際に抗議行動に何度も参加しないと、現場での判断力は身に付かない。また、毎朝のミーティングでくり返し言われているように、あくまでチームとして行動しているのであり、バディと班を大切にして互いに目を配り、全体の統一がとれた行動をとるという基本がおろそかになれば、成果が出ないだけでなく危険ですらある。そういう基本を再確認しておきたい。
70年前の4月中旬のこの時期、本部半島にいた日本軍の部隊は、米軍の攻撃を受けて八重岳から多野岳に敗走していた。当時県立三中の学徒隊に加わっていた私の父は、八重岳の南側の勝山付近に下りて三土手あたりを通り、伊差川を抜けて多野岳に歩いていった、と話していた。途中の武田薬草園では米軍の待ち伏せ攻撃があり、兵隊や住民の死体が転がっているのを目にしたという。
毎日、日に何度も沖縄戦のことを思う。特にこの数日は、やんばるの戦争のことを思いながら過ごしている。多野岳に向かって夜の森を歩くとき、前の兵隊を見失わないように蛍の幼虫を背中に付けた、という証言がある。沖縄の蛍の幼虫は陸生で、草の間で光っているから、可能だったのだろう。それにしても、か細い光なのだが。
日本軍が敗走し、米軍と日本軍の本格的な戦闘が終わったから住民が安全になったか、というとそうではない。昼間は山中に潜み、夜になると村に下りてくる日本軍が、食料の強奪やスパイと疑った住民の虐殺を始める。そして、中・南部からの避難民は飢えとマラリアに苦しめられ、死んでいった。日米両軍の戦闘とは別の形で、北部でも戦争は続いていたのである。