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Channel: 海鳴りの島から
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70年前のことを思いつつ……

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 3月10日は午後からキャンプ・シュワブのゲート前に行った。東京大空襲から70年の節目を迎え、この数日、関連する記事やテレビ番組を目にする機会が増えたが、焼夷弾を使って民間居住地も焼き払い、10万人以上の市民を殺戮した無差別爆撃は、広島、長崎への原爆投下とならんで、戦争犯罪以外の何ものでもない。しかし、日本政府はもとよりそれを批判する声がいま、日本でどれだけあがっているだろうか。米軍も一片の反省もないまま、70年前のことなどろくに知らない若い兵士たちが、新たな殺戮の訓練を行っている。

 ゲート前では替え歌が流行っていて、安倍政権を批判したり、海と陸の抗議行動を鼓舞する歌が次々と歌われていた。中でも美空ひばりの「お祭りマンボ」の替え歌には笑ってしまった。沖縄の歌や「アメイジング・グレイス」、「コンドルは飛んでいく」などをオカリナで奏でる男性もいて、参加者はみな見事な音色に聞き入っていた。

 午後3時過ぎ、沖縄総合事務局と思われる車2台に乗って、スーツ姿の男たちが10名ほど基地内に入った。中から金網越しに国道付近の様子を見ていて、内閣府か国土交通省あたりの官僚が、現場の状況を見に来たようだった。座り込み参加者が道路を渡って基地の金網越しに抗議すると、車に乗ってゲートから出ようとする。ゲート前で抗議する市民を機動隊が排除し、しばらくもみ合いとなった。

 70年前の3月、沖縄各地への空襲は日に日に激しさを増し、下旬にはいると上陸前の艦砲射撃が始まる。お年寄りの中には花火の音を聞くと、砲撃や爆撃を思い出して不安や恐怖に駆られる人もいる。学生時代、キセンバル実弾演習に対する抗議行動に参加したことがある。封鎖された県道104号線に座っていると、105ミリ砲や155ミリ砲から発射された実弾が、シュルシュルと頭上を飛んでいく音が聞こえた。恩納岳やブート岳に着弾すると、ズズンという衝撃音が地面を伝わって内蔵に響くようだった。

 しかし、抗議行動では頭上を飛ぶ実弾に緊張はしても、自分が殺戮される恐怖はない。戦争中、小学校4年生だった母は屋我地島で暮らしていたのだが、島のある壕に砲弾が直撃し、中にいた家族が生き埋めになった、という話を子どもの頃に聞いた。松の根っこが隙間を作って空気が入り、そこにいた子どもだけが助かったという。ゲート前では「艦砲のくぇーぬくさー」という歌がよく歌われるが、「米軍の艦砲射撃の食べ残し」という意味だ。生き残った自分たちをそう言い表したほど、米軍の艦砲射撃は苛烈だった。

 ゲート前に立って米軍車両を見ていると、そういう沖縄戦の話が思い浮かんでくる。学生時代に基地労働者から聞いた話では、ベトナムから戻ってきた車両のタイヤには泥と一緒に髪がへばりついていたという。ひき殺されたベトナムの兵士や住民の髪で、それを洗い落とす仕事を沖縄の労働者たちがやっていた。当時の基地労働者は沖縄戦の体験者であり、自分が米軍の戦争に手を貸していることに悩んだ人も多かった。

 この軍事植民地の風景がいつになったら沖縄から消えるのだろうか。

 


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