70年前の沖縄戦のとき、私の乳は14歳で沖縄県立第三中学校(現県立名護高校)の学生だった。鉄血勤皇隊として本部の八重岳に配置され、日本軍の擲弾筒隊の弾運びをやったと話していた。4月の中旬に本部半島にいた日本軍・独立混成第44旅団第2歩兵隊(通称宇土部隊)は米軍の攻撃に敗走して名護の多野岳に移動する。
父は三中の仲間たちと八重岳の南側(勝山)に下り、三土手から羽地の武田薬草園近くを通って伊差川を抜け、多野岳に着いた。しかし、山の中で仲間たちとはぐれてしまい、5人の日本兵と行動を共にする。逃げる途中に親切な女性が、兵隊の格好をしていると米軍に撃ち殺されるからこれに着替えなさい、と自分の子どもの服を与えてくれたという。小柄でいまの小学校4~5年生くらいの体格だったというから、米軍も油断する。多野岳から名護の町まで歩いて米軍が捨てた残飯を拾い、山中に隠れている日本兵に運ぶ役割を担っていた。米軍の残飯捨て場は三中の近く(現在の北部合同庁舎付近)にあったという。
ある日、日本兵たちは東海岸に下りてイカダで島づたいに鹿児島まで逃げることを計画し、父も一緒に山を下りた。辺野古あたりだった、というから大浦湾に出たのではないかと思う。イカダを作っていざ海に漕ぎ出すというとき、日本兵たちは父ともう一人の沖縄の兵隊はイカダに乗せなかった。てっきり自分も乗って逃げられる、と思っていた父は落胆するが、日本兵たちの言うことを聞くしかない。情けない思いでイカダが海に出ていくのを見送ったというが、結局、日本兵たちも粗末なイカダでは外洋を漕ぐことができず戻ってきたという。
大浦湾をカヌーで漕ぎながら時々、父から聞いたこの話を思い出す。沖縄戦当時、船やイカダで黒潮に乗って北上し、奄美諸島沿いに鹿児島まで逃げようとした兵隊たちの話は少なくない。しっかりした船を手に入れた者たちは成功しただろうが、手製のイカダでわたろうとして沈没し、水死した兵隊も多かったはずだ。当然、米軍艦に見つかれば射殺される。大浦湾を漂い、周辺の浜に流れ着いた死体もあっただろう。
多野岳に戻った父はそのあとも日本兵たちに米軍の残飯を運び続ける。それにしても、14歳の少年を利用して飢えをしのぎ、いざとなれば簡単に見捨てて自分たちだけイカダで逃げようとした日本兵たちは、戦後どのような人生を送ったのだろうか。日本軍の上層部にとっては下っ端の兵隊たちも使い捨てのコマでしかなかったのだろうが、その下にはさらにまた日本軍にいいように利用され、ろくな装備もなく米軍に突っ込まされて死んでいった沖縄人たちがいた。
その「捨て石」の構図がいま大浦湾でくり返されている。70年間にわたり沖縄に米軍基地を集中させて来たうえに、新たな基地を海保と機動隊の暴力を使って建設する。沖縄人よ、日本全体の利益のために犠牲になれ。それが日本政府とそれを支える日本人多数の本音である。それに屈したら沖縄人に待っている将来は悲惨なものになるしかない。負きてぃやならんどーやー、ウチナンチューぬ意地見しらんねー、哀りすーしや我ったーくゎーまーがるえんどー。