昨日(24日)のブログで「沖縄全戦没者追悼式」における仲井真弘多知事の「平和宣言」について、その短さ、内容の貧しさを指摘したのだが、何度も読み返して、手抜きとしか言えないひどさに怒りが湧いてくる。以下に全文を引用する。
仲井真弘多知事 平和宣言全文
69年目のこの日を、厳粛な気持ちで迎えることになりました。戦後このかた、私たち県民は、この日に込められた平和への強い思いを胸に刻みつつ、歩いてきました。
幾多の困難を乗り越え、郷土沖縄の発展にまい進することができたのは、あの戦争で失ったものの大きさを痛感し、その思いを原点に据えることができたからであります。
しかし、私たちは、立ち止まるわけにはいきません。沖縄をめぐる課題はなお山積しており、その解決に向かって、県民の総力を掲げ、着実に前進しなければなりません。
特に、沖縄の基地負担を大幅に削減し、県民の生活や財産を脅かすような事態を、早急に、確実に改善しなければなりません。普天間飛行場の機能を削減し、県外への移設をはじめとするあらゆる方策を講じて、喫緊の課題を解決するために、全力を注がなければなりません。そのために、私は普天間飛行場の5年以内の運用停止を求めているのです。
慰霊の日に当たり、全戦没者のみ霊に謹んで哀悼の誠を捧げますとともに、恒久平和の実現を目指して、県民の強い思いと英知を結集し、まい進していくことを宣言します。
2014年6月23日
沖縄県知事 仲井真弘多
以上引用終わり。たったこれだけなのだ。「県外移設」という文言が入るかどうかがメディアで取り沙汰されていたが、それ以前にこんなにも短く、形式的で、心のこもらない「平和宣言」があるだろうか。昨年の広島市と長崎市の「平和記念式典」で読み上げられた「平和宣言」を以下に紹介するので、ぜひ読み比べてほしい。仲井真知事の「平和宣言」のひどさが一目瞭然となる。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1110537278566/
http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/appeal/
〈原爆死没者への追悼とともに核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願って〉(広島市)という言葉に違わない内容と深み、犠牲者への思いと平和への意思を感じさせる「平和宣言」である。それに比べて仲井真知事の「平和宣言」は、比較するのも恥ずかしくなるくらいだ。沖縄の地上戦で血と泥と炎の中をはいずり回って死んでいった戦死者への思いを、どこに読みとれというのか。
広島市、長崎市の「平和記念式典」と並んで、沖縄県の「全戦没者追悼式」もNHKで全国に生放送されている。仲井真知事の名において、こんな情けない「平和宣言」が全国に発せられたのだ。沖縄県民は、これをテーゲーで許してはいけない。これを黙って見逃してしまうと、県民の沖縄戦への認識、平和への願いもこの程度のものと思われてしまう。これは県民全体で議論すべき問題であり、県議会でも追及すべきだ。
同時に「沖縄全戦没者追悼式」のあり方も検討すべきだ。式での発言者、献花者は政治家、軍人が大半であり、遺族をはじめとした沖縄戦の被害者の姿はほとんど見えない。どうして沖縄戦の生存者の発言がないのか。全国に生中継されるのを良いことに、政治家が自らの政治的メッセージを発信し、日米の軍事的協力関係がうまくいっているとPRする場として利用されている。
安倍首相を先頭に防衛大臣、沖縄担当大臣らが連なって、辺野古新基地建設や集団的自衛権の容認に突き進みながら、あたかも沖縄の基地の「負担軽減」を進め、平和を願っているかのように装う。そういうまやかしが、何万という住民、兵士の血が流れ、今も遺骨が残る摩文仁の地で、「戦没者追悼」の名のもとに演じられている。仲井真知事もその一員として、形ばかりの「平和宣言」を発して、「追悼式」の形骸化を進めている。
来年は沖縄戦から70年になる。「歴史修正主義」の動きが活発化するのは間違いない。沖縄戦の史実をどう伝え、戦争体験をどう継承していくかを考えるうえでも、今回の仲井真知事の「平和宣言」の問題をないがしろにしてはいけない。「全戦没者追悼式」のありかたも、県民がもっと主体的に関わり、沖縄戦の遺族・体験者の姿が見え、声が聞こえる場として作りかえていく必要がある。「追悼式」は政治家や軍人のためにあるのではないはずだ。