第64師団独立歩兵第13大隊第2中隊の兵士として、中国と沖縄の最前線で戦った近藤一氏は、〈山西省「慰安婦」事件第一次訴訟控訴審 陳述書〉(2003年11月17日)でこう述べている。
〈今沖縄戦と中国での戦争の実態を話すのは私1人しかいません。沖縄戦については最初から最後まで前線にいて生き残った者はほんの数名で、その後病気になったりして話せるのは私しかいないのです。又、中国の戦場を経験して帰ってきて、さまざまな残虐行為を見たり、又それらの行為に直接手を下した人は相当数います。しかし、大多数の人は自分たちの罪業は一切口を閉ざして語ろうとしません。戦友会でだけ家族にも言えないようなことをおもしろおかしく話し合って、どこで強姦したとか何々をしたということを言い合っています。
ですから、私たちがこのまま死んでいけば、日本国中であの日中戦争の中で本当はどんなことがあったか、誰も知らないということになってしまいます。そして、私のように本当のことを話そうとすると、なぜ今さら過去の罪業を掘り返すのだと非難する人も出てくるのです。
しかし、沖縄戦で何の罪もない女性や子どもを含むたくさんの住民が無惨に殺されていった姿、戦友が地獄のような中で死んでいった姿は今でも忘れることができません。そしてそのことを思う時に、私は中国で中国の人々に対してやってきたことに心から申し訳ないという気持ちになるのです。
今日本社会では中国をはじめとするアジアの国々に対し、あの戦争中の犯罪行為をきちんと謝罪したり賠償したりしないばかりか、又戦争の準備をはじめようとしています。こんな日本のいちばんの根元には、昭和天皇が8月15日の敗戦の後、きちっと戦争責任、戦後責任というものを明確にしなかった。これがいちばんの根元であると思います。敗戦の時に昭和天皇が自分が命令して、自分が決裁した大本営によって、こういう戦闘をやった、こういう所に部隊を派遣した、こういうことも自分がやったんだと、したがって戦争をやった一ばんの元は俺である、ということで、敗戦の折にきちっと言ってもらえれば、海外から引き揚げて来る戦争体験者は、天皇があれほど言っている、向こうでやったことをもう一遍考えてみよう、こんな、人間でないことをやってきたと、謝るべきはちゃんと謝って、償うべきはちゃんと償いをしなきゃいかんじゃないかという思いに、私はなっていたと思います。ところが、一ばん上の人からそれがないから、帰ってきた者は自分も戦犯を逃れようとして何も言わない、口を封じている。10年経っても20年経っても、それは同じことで、言わなきゃいいじゃないかということで済んでしまう。
政府も、何も反省せずに憲法の9条なんか空文化して又軍隊を持ってしまう、戦争をはじめる準備をどんどん進めています。あの戦争はなぜあんな悲惨な戦争になり、300何十万もの国民が死んだか、千何百万もの外国の人を殺してしまったか、ということの反省さえあれば、戦後の歴史は変わっていたはずです〉(青木茂著『日本軍兵士・近藤一忘れえぬ戦争を生きる』風媒社184〜185ページ)。
近藤氏は沖縄戦慰霊の日には毎年沖縄を訪れ、宜野湾市嘉数の「京都府慰霊碑」、糸満市摩文仁の「石独立歩兵第一三大隊沖縄慰霊碑」、第62師団の兵士たちの看護にあたった、ずゐせん学徒隊、でいご学徒隊の慰霊碑に祈りを捧げてきた。94歳になった今年も沖縄に来て講演や慰霊をした様子を琉球朝日放送が取り上げている。
http://www.qab.co.jp/news/2014062355157.html
8年前に名古屋で講演をした際に、近藤氏が話を聴きに来てくださり、ロビーで短い話をした。その時、できたばかりという本をいただいた。上の引用はその本からのものである。今も元気な姿をテレビで見て喜ぶと同時に、集団的自衛権行使容認に突き進む日本の状況を、誰よりも憤りと悔しさを持って見つめているだろうと、やりきれない思いにかられる。
70年前の8月16日に第62師団は上海を出港し、19日に那覇港に着いた。翌20日に兵士たちは沖縄に上陸するが、その時、近藤氏が乗ってきた船が対馬丸だった。第62師団の兵士たちを降ろした後、対馬丸は学童疎開船として子どもたちと家族を乗せ、20日夕方に出港。九州へ向かう途中の22日夜10時過ぎ、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没する。
その対馬丸の記念館を訪れるために、今日26日に天皇夫妻が来沖した。敗戦から1年も経たないうちに昭和天皇は「全国巡幸」を始めた。その行為をなぞるかのように現天皇も全国を巡り、昭和天皇が天皇として訪れることができなかった沖縄にも、皇太子時代からくり返しやってきて10回目となる。今回は糸満市の平和祈念堂、国立沖縄戦没者墓苑、那覇市の対馬丸記念館を訪れるのだが、そこには近藤氏が投げかける父・昭和天皇の戦争責任を問い、謝罪する要素はまったくない。むしろ、現天皇の戦跡地を巡る行為が生み出すのはその逆である。
天皇の行く先々では厳戒な警備体制が敷かれ、「天皇は神聖にして侵すべからず」という大日本帝国憲法の下にあるかのように、物言えぬ状況が作り出されていく。一見穏やかな天皇夫妻の笑顔の裏からは、右翼のテロという暴力の臭いが漂い、それに敏感に反応して「自粛」「自己規制」という形で菊のタブーが作り出される。天皇制に反対する者たちの行動は警備公安警察によって弾圧され、日の丸動員による歓迎ムードが煽られるなかで、戦争の悲惨さは薄められ、殉国美談が作られていく。
過去に訪れたひめゆりの塔や今回の対馬丸記念館は、国のために献身し戦争の犠牲となった純粋な少年・少女たちという物語を作り、昭和天皇の戦争責任という問題を隠蔽するうえで格好の舞台となる。近藤氏のように皇軍兵士として最前線で戦い、中国で民間人の刺殺、銃殺、女性への強姦、輪姦も行ったと語る兵士なら、天皇の軍隊がやったことを自らの体験として突きつけ、殉国美談を内側から突き破ることができる。しかし、そのような兵士の声は無視され、「戦争の犠牲」という抽象化された悲劇として、沖縄の少年・少女の死が天皇夫妻の慰撫の対象とされるのだ。
しかし、私たちは忘れてはならない。本土決戦の準備のための時間稼ぎとして沖縄戦は持久戦が選択され、第32軍の司令部があった首里での決戦を回避して、日本軍が沖縄島南部に撤退することにより、6月以降に多大な住民の犠牲が生じたことを。その背景にあるのは国体護持=天皇制の存続のために、米軍に少しでも打撃を与えて敗戦後の交渉を有利に進めるという、昭和天皇や政府・軍部の打算的意思である。彼らにとって沖縄で住民、将兵が玉砕=全滅することも、国体護持のためならやむを得ない、という程度の重さしかなかったのだ。
戦争とはまさに容赦なきものであり、国家の中枢を握る者たちの意思は冷徹なものだ。自分たちが生き延び、利益を保持するためには、庶民の命も生活も簡単に踏みにじる。そのことを見抜けずに天皇の「お言葉」に涙する者たちは、同じ失敗を何度でも繰り返して痛い目に遭う。
辺野古新基地建設に向けたボーリング調査開始、高江のヘリパッド建設工事再開、与那国島への自衛隊配備などが間近に迫り、沖縄はいま大きな岐路に立たされている。そういう時期に計画された天皇訪問を有り難がるような精神構造のままなら、日本政府にいいように扱われて、沖縄県民は再び戦争の犠牲を味わうだろう。
天皇の来沖に強く反対する!