2週間後の6月23日は沖縄戦慰霊の日である。69年前、6月中旬の2週間に沖縄の住民と兵士たちは、島の南端に追いつめられ、米軍の攻撃によって生き地獄を味わっていた。住民にとって敵は米軍だけではなかった。日本兵による住民虐殺、壕追い出し、食糧強奪も相次いだ。
渡辺憲央著『逃げる兵 高射砲は見ていた』(文芸社)には、戦友から聴き取った6月の摩文仁の状況が記されている。「軍隊は住民を守らない」ということが沖縄では当たり前のように言われる。それはどのような体験に根ざしているのか。そのことを考えるため、住民虐殺についての証言を同書から引用して紹介したい。
〈五月二八日、私たち一中隊が具志頭に転進したころ、軍司令部も首里を放棄して最後の拠点摩文仁の洞窟にたてこもった。これと相前後して大隊本部も前線で壊滅した残存将兵をかき集め、軍司令部とは運命共同体とでもいえそうな至近距離にある小度の洞窟を拠点にした。戦況はここ数週間で急速に悪化した。南下した米軍は、私たち一中隊が守備する具志頭陣地を攻略したあと戦車を連ねて摩文仁に迫り、同時に小度にも進撃を開始した。またこれに呼応して周辺海上からの艦砲射撃が集中しはじめた。すでに敵の包囲網は急速にその範囲をせばめ、余すところわずかに摩文仁、小度の四キロ余り、沖縄日本軍の運命は文字通り断崖上に立たされることになった。
六月はじめ、この壕に入った大滝大隊長は突き当たりの一番奥に大隊長居室を作り、将校、下士官のいる指揮官班の間に衝立替わりに毛布を吊り下げ、その中で愛人トヨ子と起居をともにしただけでなく、当番兵に糞尿の始末までさせていたという。しかも、彼女の抱親(廓の女将)と実母まで手狭な壕内に同居を許されていたのである。
私たちが具志頭から戦線離脱した翌日、三分隊の藤島は台上の蛸壺の中から五発の小銃弾を発射した直後、迫撃砲の至近弾で負傷し、地下壕に運び込まれた。中隊は二日間の戦闘で四二名が具志頭の露と消え、生き残ったのは重傷を負った中村中隊長ほか四〇名足らず、しかもその大半が重軽傷を負っていた。その夜、残存将兵は大隊長命令で小度の本部壕に合流することになり、自分で歩ける藤島ら三〇名ほどの負傷兵は、野島軍曹の指揮で大度へ向かって出発することになった。だが、このとき歩けない野波上等兵と幸上等兵は手榴弾で自決。自決を拒んだ中島上等兵はK班長の拳銃で射殺された。不祥事が起こったのはその矢先である。
ひとりの婦人が壕の中に迷い込んで来た。婦人はどこから来たのか、小ざっぱりした衣類を身につけ、壕内に同居している村民のように薄汚れていなかった。それを見とがめた兵隊の中に、「おかしいぞ」という者がいた。
「米軍に頼まれて様子を見に来たんじゃないか」
するとその声に応じて奥の方から、「その女に手を出すな!」という命令が聞こえた。間もなく壕の奥で、「兵隊さんが私を殺す。助けてください。ヤマトの兵隊が……」と女の泣き叫ぶ声が訊えた。その瞬間、女の悲鳴とともにバーンという小銃の発射音が壕内にこだました。いったい何のために撃ったのかわからない。まるで行きがけの駄賃としかいいようがなかった〉(204〜205ページ)。
証言に出てくるトヨ子について渡辺氏は以下のように記している。
〈その夜、大隊本部の壕を住み心地よくするため、浜田と私が土方作業の使役に駆り出された。本部指揮班は酒宴の真っ最中であった。大隊長の横にひかえているのは、去年の秋、慰問に来たとき琉球舞踊を見せてくれた乙姫のトヨ子である。色は少し黒いが目鼻立ちの整った美人で、あのとき以来大隊長のお抱えとなり、辻遊郭が空襲で焼け野原となったあと引き取られて来たそうだ。女はほかに何人かいて陽気に騒いでいたが、私たちはそれに見とれているわけにはいかなかった。大隊長専用の個室を作るため私たちは岩盤を砕き、岩塊をモッコに入れて外に出す作業を終夜くり返した。
本部には初年兵教育を一緒に受けた羽矢がいて、そっと私に囁いた。
「見てみろ、将校はあの調子じゃ。軍紀も風紀もありゃせんぞ。酔っぱらうと女を抱いてそのまま寝るんじゃ。早よう個室を作ってもらわんと、若い者はたまらんわい」とぼやいた。浜田が、「渡辺、同じ穴掘りでも固い岩を掘るのは辛いのう」と嘆いた〉(75ページ)。
沖縄戦で渡辺氏は、「球一二五一七部隊、独立高射砲二七大隊」の「第一中隊第二分隊」に所属し、那覇市小禄のガジャンビラ台地に据えられた高射砲で那覇軍港と小禄飛行場の防衛にあたっていた。大隊本部の壕で本部指揮班が酒宴を開いていたのは、菊水作戦が実施された日とあるので、4月6日頃のことである。すでに沖縄島に米軍が上陸し、連日空襲や艦砲射撃を受けているさなかで、日本軍の将校たちは〈軍紀も風紀もありゃせんぞ〉という状態であった。
将校たちの中には、遊郭の女性や駐屯地域の女性を愛人、現地妻にしている者もいた。トヨ子は大隊長の愛人として、南部に敗走した部隊と行動を共にし、最後は行方知れずとなったと記されている。壕の中に迷い込んだ〈婦人〉が殺害されたのは、69年前の6月10日頃のことである。