先だって京都を旅したおりに西本願寺大谷本廟にある「肉弾三勇士之墓」を訪ねた。1932年(昭和7年)2月22日払暁、第一次上海事変において戦死した作江伊之助、江下武二、北川丞の三人の工兵の墓である。土曜日で近くの清水寺は観光客で賑わっていたが、墓地は静かで、谷の斜面に並ぶ墓石の向こうの緑が美しかった。
上野英信は『天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説』(ちくま文庫)でこう記している。
〈宗祖親鸞を中心に大谷家の祖霊を祭る専用墓地と、一般墓地との間の細い坂道を昇ってゆくと、間もなく左手に厳粛なたたずまいの「貝島家之墓」が見受けられる。…中略…この石炭王貝島太助の墓所の前を昇ってゆくこと十歩ばかり、すぐ道端に江下武二たち三人の若者の墓がある。いかにもますらおぶりの雄勁な書体で「肉弾三勇士之墓」と刻まれ、「殉忠院釈洪誠陸軍伍長勲八等功六級作江伊之助」外二名の法号、位階勲等、俗名が記されている。「一誠院釈忠丞」は北川丞、「忠誠院釈祐武」は江下武二。それらの法名は「佐官級以上の信仰篤き軍人にのみ下附」されるものといわれる。英霊以て瞑す可き破格の特典とされるゆえんである〉(82〜83ページ)。
「肉弾三勇士之墓」の周りや墓所のあちこちに、日中戦争、アジア太平洋戦争で戦死した兵士たちの墓石が立っている。普通の墓石より二、三倍も高いそれに刻まれた氏名や階級、戦死にいたる記録を読んでいくと、昭和初期から20年まで日本国家がいかに広大な地域を侵略し、多くの兵士を死なせていったか。それらの兵士が死んだ場所の住民がどれだけ殺傷されたかを生々しく感じさせられ、考えさせられた。
日本が行った侵略戦争と植民地支配の歴史を知るうえで「立命館大学国際平和ミュージアム 平和の博物館」は良い場所だ。ただ、前日訪れた時は、幼稚園生に読み聞かせをしているくらいで、参観者の少なさが目についた。近くの金閣寺をはじめ京都市内は修学旅行生であふれかえっていたのだが、こういう近・現代史を学ぶ場所を生かそうという教師、学校はどれだけあるのか。沖縄から京都に修学旅行に行く学校もあると思うが、まずは教師たちが見学してほしい。
27日付の県内紙にサイパン島で行われた「第45回全南洋群島沖縄県人戦没者慰霊祭」のことが載っている。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-226020-storytopic-1.html
沖縄戦に先立って南洋群島で行われた戦争から70年が経つ。「肉弾三勇士」の死はサイパン戦、沖縄戦における住民、兵士の死へとつながっていった。時あたかも安倍政権によって集団的自衛権行使への策動が進められている。戦死した兵士が「勇士」「軍神」としてメディアや教科書で称揚され、市民の戦意高揚、国家への隷従のために利用されることは、二度とあってはならない。