10日は大山ゲート前での早朝抗議行動のあと嘉数高台公園に行った。展望台からは宜野湾市内が一望でき、訪沖した閣僚や政治家が、ここから普天間基地を視察している映像がテレビでよく流れる。見学者が多く、半時間ほどの間にもヤマトゥから来た大学生のグループや基地・戦跡巡りをしている地元の女性たちが、基地の様子を眺めていた。
展望台に立つと、日本軍がこの高台に陣地を構築した理由がよく分かる。1945年4月1日に読谷・嘉手納の海岸に上陸した米軍は、第32軍の司令部がある首里を目ざして南下を始める。それを遮るように伸びる嘉数高台と前田高地(浦添城跡)に日本軍は陣地を構えて迎え撃った。嘉数高台の戦闘について、沖縄戦研究者の大城将保氏は次のように記している。
〈南下してくる米軍にたいし、日本軍は、大謝名から和宇慶にいたる線に正面陣地をかまえ、東の運玉森(うんたまむい)、西の天久台地とともに首里の軍司令部を防衛する強固な地下陣地をかまえて息をひそめていた。嘉数高地と前田高地は、その防衛戦の中核であった。
四月八日から、米軍はこの丘陵地帯に猛攻をかけてきた。太平洋戦争を通じて最大規模といわれる砲爆撃がこの一点に集中した。山は形を変え、洞窟陣地やトーチカは土石で埋もれてしまった。だが、夜になると、日本兵は土の下からはいだしてきて、肉弾攻撃で反撃した。ある一日、米軍は三〇台の戦車をならべて総攻撃をかけたが、タコ壺からとびだしてきた日本兵の爆雷や手りゅう弾攻撃によって二二台を破壊された。一日の戦闘としては最大の損害であった。物量にものを言わせる米軍も、一日に一〇〇メートル前進するのがやっとであった。
一進一退の攻防戦が二週間以上もつづき、嘉数高地が陥落すると、次は前田高地の争奪戦に移っていった。嘉数高地から浦添をへて首里にいたる中部戦線は、直線距離にするとわずか一〇キロしかない。この距離をめぐって両軍は総力をあげての攻防戦をくりひろげ、沖縄作戦の約半分の五〇日という日数をここで費やしている〉(『第三版 観光コースでない沖縄』高文研 71〜72ページ)。
かつての戦場はいま、公園として整備されている。同地に配備された第62師団(石部隊)には京都出身者が多く、「京都の塔」が北を向いて建てられている。傍に並んで、防衛隊や軍属として動員され、犠牲となった地元住民を慰霊する「嘉数の塔」がある。また、同地で戦死した〈韓民族出身ノ軍人、軍属三百八十一柱〉(碑の説明板より)を慰霊する「青丘ノ塔」もある。
展望台の近く、北側斜面にあるトーチカ。表側・北側(上2枚)は裏側・南側(下1枚)に比べてかなり破壊され、一部は鉄筋が剥き出しになっている。
公園南側の駐車場に車を止め、高台に向けて階段を上ると、途中に弾痕の残る民家の壁が保存・展示されている。
高台の南側斜面に残る陣地壕入口。
嘉数高台が戦跡地であると同時に、普天間基地を視察する場所ともなっていること。そのことの意味を深く考えたい。戦争と占領、施政権返還後も継続する米軍基地集中、時には「捨て石」、時には「太平洋の要石」として沖縄を利用して来たヤマトゥの姿、住民の生活の場が戦争と直結している沖縄の過去と現在が見える場所である。