4月28日は東京にいたので、都内で開かれた4・28「主権回復の日」記念式典への抗議集会・デモに参加した。日比谷図書文化会館・大ホールで開かれた集会は「沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック」主催によるもので、ホールに入りきれないほどの人が集まっていた。沖縄から来た本村紀夫さん(元沖縄青年同盟)、新崎盛暉さん(沖縄大学名誉教授)、安次富浩さん(ヘリ基地反対協代表委員)らが発言していた。
集会後、日比谷公園からデモ行進が出発した。約400名が参加したとのこと。「沖縄を返せ」の唄・サンシンと政府主催の「主権回復の日」記念式典に抗議するシュプレヒコールが響いた。途中、右翼団体の宣伝カーが汚い言葉を吐きつけてきたが、無視して挑発には乗らず。
デモは日比谷公園を出て国会方向へ進み、経済産業省前の脱原発テントを見ながら左折、虎ノ門方向へ進んだ。
文化庁前を通って外堀通りに入り、新橋駅前へ進む。
柳通りから新橋駅近くの公園に入り、総括集会を開いて、約50分のデモ行進を終えた。
前日の27日に行ったHOWSの講座と、その前に取材を受けた記事が沖縄タイムスに載っている。
http://michisan.ti-da.net/e4705086.html
私が初めてデモに参加したのは1979年の4月28日で、大学に入学したばかりの18歳の時だ。もう34年も前のことだが、日本復帰から7年目の当時でさえ、4・28に反戦・反安保の集会やデモをやっている団体はごく一部だった。以来、サンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄が切り捨てられた日として、40年目や50年目の節目にメディアが特集を組んだり、講演会、シンポジウム、篝火集会などが行われることはあった。昨年は60年の節目で海上集会が行われた。しかし、沖縄でも4・28は、5・3や5・15、6・23に比べて影が薄く、歴史の中に埋もれつつあったと言える。
安倍首相が「主権回復の日」として記念式典を催すと打ち出すまで、4・28に沖縄で再び大規模な集会が開かれると予想した人は、誰もいないだろう。安倍首相は、ウチナンチューに4・28の歴史的意味を再認識させ、復帰運動も反復帰論も知らない世代に、沖縄・日本の「戦後」史を学び直す機会を与えた。そういう意味で寝た子を起こしたと言える。沖縄の歴史は、無造作に触れれば血が噴き出す事実の積み重ねなのだ。
今回、式典に天皇夫妻が出席したことで、昭和天皇がマッカーサーに送ったメッセージの問題が、あらためて焦点化されることとなった。さらに天皇への万歳三唱が起こったことで、天皇制が政治利用されることの危険を国内外に突きつけた。今日は憲法記念日だが、憲法9条と1〜8条の天皇条項、沖縄への基地集中化の関係を押さえることが大切である。
もともと天皇と無縁だったウチナンチューが、明治の琉球侵略以降の同化政策で、自らも天皇の下にある同じ日本人だ、という幻想を抱くよう仕向けられた。沖縄戦で「捨て石」にされ、サンフランシスコ講和条約で切り捨てられてもなお、その幻想にしがみついて「祖国復帰運動」に邁進した。教師たちは自らの言葉や生活習慣を否定し、子どもたちのヤマトゥへの同化を進めていた。
1960年生まれの私は、小学校の頃に教師に指示されて日の丸の小旗を作り、沿道で振って復帰行進団を迎えた世代である。講和条約発効から1972年の施政権返還までの20年間、復帰運動の内実も変わっていくが、そこに流れていたナショナリズムの問題を問い返していくこと。それはウチナンチューにとって今も続く課題である。