以下の文章は、2017年12月7日発行の『越境広場』4号に掲載された仲里効氏との対談で、沖縄戦について語った部分の引用である。
1930年代になって満州事変や上海事変とかが始まり、1937年に南京大虐殺が起こります。沖縄の人たちもそういう戦地に行っている。1980年代に個人史ブームが起こって、自費出版された本が古本屋で安く売られています。その中にはたいてい従軍体験が載っているわけです。だいたい男が書いていますからね。ウチナンチューが書いたものの中にも、たとえば上海事変に参加して、揚子江に大量の遺体が流れているのを見たとかですね、こんなことが書かれているのもある。虐殺に関わったウチナンチューもいたでしょう。熊本の第六師団も南京攻略戦に参加しているわけですから。その人たちの証言がきちんと残っていたら、沖縄の人たちがアジア各地で何をしたかがわかったはずなんだけど、これはいまからでも埋もれている史実を掘り起こさないといけないと思います。それをやっていくことで、侵略戦闘に加担したウチナンチューの責任を問うことになるわけです。
それを掘り起こすことによって沖縄戦のいろんなことが見えてくるはずなんです。座間味島の強制集団死にしても、中心になった人の中には梅澤元隊長の証言によれば、久留米師団で日中戦争を戦った経験があり島に戻って在郷軍人になった人がいた。この人が「集団自決」で大きな役割を果たした。日中戦争に参加してきた人は当時30代、40代の働き盛りで地域のリーダーなわけです。その人たちは初年兵教育で叩き込まれた軍人精神を持っていて、戦地で中国人を切り殺した人もいたと思います。強制集団死の要因のひとつと言われる米軍への恐怖心は、日本の軍隊だけが住民に吹き込んだものではなくて、在郷軍人となった地域の人たちも自分の戦争体験から、捕まったらひどい目にあうと思い込み、死への道を選んでしまったのではないか。そういう視点からの検証も必要だと思います。
強制集団死の問題を考える場合、そこに至る過程をいくつかの段階で考える必要がある。沖縄では琉球処分以降、同化政策が進められて日本の教育が叩き込まれていく。徴兵制も敷かれて、教育勅語とか軍人勅諭とか教え込まれて皇民化されていく前史があった。日中戦争が勃発したら今度は東条英機が戦陣訓を出して、その中で「生きて虜囚の辱めを受けず」という一節が兵士だけでなく一般市民にまで大きな影響を与える。太平洋戦争が始まると米英の反転攻勢に追いつめられ1943年5月にアッツ島の守備軍が玉砕する。以後、「海ゆかば」という荘重な曲を流しながらラジオでは部隊の全滅を玉砕という言葉で美化していく。国のため、天皇のために死ぬことを名誉とする意識が広められていく。そして1944年10月から航空機を使った特攻作戦が敢行される。そうやって戦局が悪化して煮詰まっていって沖縄戦に至る。その過程で、国のため、天皇のために死ぬことを名誉とするという意識が、国民全体に広められていった。
沖縄の人たちが十・十空襲を受けた直後、戦争が身近に迫っているのを実感したなかで特攻作戦が始まっている。明治以降の同化政策、皇民化教育で培われてきたものを下地にして、太平洋戦争が迫るなかで出された戦陣訓、そして、玉砕と特攻が前面化する過程を経て1945年3月末の座間味島、慶留間島、渡嘉敷島に至るわけです。「集団自決」は当時は玉砕と言われていて、慶良間諸島はマルレという特攻艇の基地がおかれ、まさに特攻と玉砕の島として位置づけられていたわけです。しかも、そこでは玉砕は部隊だけでなく住民にまで拡大されていた。そこでは外部から来た軍人だけでなく、内部にいた軍隊体験者、在郷軍人たちも大きな役割を果たしていた。そういう近代以降の沖縄の歴史と日中戦争以降の戦局の悪化と戦陣訓、玉砕と特攻という国民全体が死に向かって煮詰まっていく過程、日本軍による命令、強制と島の内部からそれに呼応していく在郷軍人や村のリーダーたち、その構造をきちんと見ないと強制集団死の構造は見えてこないと思います。