以下に紹介する文章は、2023年8月22日付「沖縄タイムス」に掲載されたものです。
関根賢司先生に初めて会ったのは、琉球大学がまだ首里にあった頃だ。今は首里城となっている敷地に大学のキャンパスがあり、法文学部109教室で文学科国文学専攻の講義が行われていた。
関根先生は古典文学を専門としていて、私は近・現代文学に関心があったので、講義を受けたのは必修科目くらいだった。しかし、大学の内外で接する機会は先生方の中で最も多かった。
その理由は何より、関根先生の人柄による。学生に対して気さくに話しかけ、酒を飲んで交流し、知的な刺激を与えることを喜びとする。読書会を開いて学生たちが議論をたたかわすのを楽しみ、読むこと、書くこと、旅すること、失恋することの意義を説いて、文学の深みにいざなう。学生にとってこれほど有り難い存在はない。
学生だけではない。沖縄の文学状況を活性化するために、関根先生はいろいろな仕掛けを試みていた。『季刊おきなわ』という雑誌を発刊して発表の場を提供し(私も「マー」という小説を書かせてもらった)、『沖縄文学全集』の刊行にも力を尽くしていた。
県内外の書き手や研究者の交流の場を作ることにも熱心だった。島空間に風を入れ、種をまいた。沖縄ジァンジァンで開かれた詩の朗読会は、今でも強く印象に残っている。
文学だけでなく沖縄の社会状況についても積極的に関わっていた。一九七〇年代から八〇年代にかけて、米軍の喜瀬武原実弾演習を阻止するために着弾地に入り、逮捕された労働者四人、学生三人を支援する「人民連帯集会」が開かれた。主催する「刑特法被告を支える市民の会」に知識人の一人として参加していた姿も忘れられない。
関根先生が「親鸞は弟子一人も持たず」と口にしていたのを何度か耳にした。学生に対して自らが権威化することを自戒していたのだろう。
権威主義への反発は言動の端々に感じられた。沖縄の文化・芸能に関しても、首里・那覇を中心としたそれに対し、奄美諸島や宮古・八重山諸島に関心を向けることの大切さを強調していた。琉球古典芸能界がヤマトゥの真似をして家元制度を取り入れていることも批判していた。
琉球大学を去った後も、関根先生からは研究やエッセイをまとめた本を何度も送っていただいた。読み、書き、旅をする。生きる中心にそれがあることは、終生変わらなかった。
学生時代に関根先生と指導教官だった岡本恵徳先生に出会えたことは、私にとって幸運なことだった。学生を教え導くというのではなく、そばに寄り添って見守り、成長するのを楽しんでいる。文学を追求すると同時に社会状況にも対峙する。謙虚でありながら芯の強い二人の姿勢は、得難いものだった。
人はみないつか死ぬ。ただ、体は滅びても、文学を愛する精神は後の世代に受け継がれる。関根先生から受けた講義は、松尾芭蕉の『奥の細道』についてだった。亡くなったことを知って、漂泊の思ひやまず、という言葉が胸に去来した。
長い旅の途中に出会えたことを感謝します。