写真は今年の6月23日に撮影した本部町八重岳に残る国頭支隊本部壕・野戦病院跡である。
8月19日に紹介した『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』には、沖縄県立第三高等女学校・なごらん学徒隊の一員として、八重岳の野戦病院に動員された上原米子さんの証言が載っている。八重岳周辺の守備隊が多野岳に移動する際、置き去りにされた重症兵のことも出てくる。その一節を以下に引用したい。
八重岳周辺の守備隊は正規の兵が五百人くらいで、残りは現地召集の兵隊や防衛隊員、三中の鉄血勤皇隊員など、寄せ集めの部隊だったようです。
本部港沿岸から伊江島沖にむらがった敵艦隊からの艦砲射撃と、空からの爆弾投下で、夜になると負傷兵が運びこまれ、手足を切断しなければならないような大手術も麻酔なしでした。腹部の傷の手当てをしている最中に、草ぶき屋根をつらぬいた機銃弾を浴びて死んだ人もいます。
四月十日、手榴弾をもって部隊長のところへおしかけてくる松田兵長を、日本刀を抜いた中尉が袈裟がけにきりつけるという事件がおきました。部隊長は球七〇七一部隊の宇土大佐でした。敵の激しい砲爆撃にもかかわらず、高射砲を有しながら部隊長から応戦の命令が出ないことに業をにやした兵長が、酒を飲んだいきおいで部隊長に抗議しようとしたらしい。軍医と看護婦がかけつけたとき、松田兵長の死体は炊事場のそばのカマスの下でした。アメリカ軍を迎え撃っているとき、友軍同士こんなふうでいいのだろうか、と私はぞっとしました。
それを引き金に、宇土隊長に対する不満の声が激しくなり、「部隊長はスパイではないのか」などとささやく人もいました。しかし、いま思えば、反撃すればかえって集中攻撃を受けて犠牲が増えると考え、高射砲を撃たせなかったのかもしれません。高射砲で戦うことの無意味さを思っていたのかもしれません。
米軍の掃討戦が始まったので四月十六日の夕方、だらしのない部隊長といわれながら、反撃命令をださなかった宇土部隊長が、ついに命令をだしました。
「全員この場所から移動せよ」
私たちは軍医の指揮で、歩けない患者に乾パンと手榴弾二個を配りました。異常を察した患者に「どうしたの、どこに行くのか」と聞かれたのですが、私は移動命令を聞いていなかったので、何も答えることはできませんでした。患者さんは死を予感したのでしょうか、病院を後にしたとき「海ゆかば」を歌う声が聞こえていました(280~282ページ)。
以上、引用終わり。
文中に「高射砲」とあるのは15センチカノン砲のことではないかと思う。伊江島に上陸する米軍を攻撃するため八重岳に設置されていた。私の父は県立三中鉄血勤皇隊員として八重岳の戦闘に参加している。生前、三中の生徒らで大きな大砲を八重岳に運び上げたが、一発も撃たなかった、と話していた。一発でも撃ったら敵に場所を知られて、何十発も艦砲射撃が返ってくる。撃てる状態ではなかった、と父も話していた。
八重岳から撤退する際、父は山中で、将校たちがきれいな服の女性たちを連れているのを見た、とも話していた。「慰安婦」にされた女性たちを連れて隊長らが逃げたあとに、歩くことのできない重症者たちは、自決用の手榴弾を渡されて置き去りにされたのだ。
天皇の軍隊がいかに兵士たちの命を粗末に扱ったか。その実態を見ずに「英霊」と讃えるのは、置き去りにされた兵士たちの無念、恨み、怒り、絶望から目を閉ざすものだ。勝ち目のない戦場に兵士たちを送り込み、住民を巻き込んで大量の死者を生み出した昭和天皇と政治家、それに協力した報道機関や知識人らの戦争責任を免罪するために、無残な死の有様が隠され、美化される。
NHKの「戦争証言アーカイブス」には、上原米子さんの証言映像が載っている。上の文章よりもさらに詳しく語られているので、ぜひ見てほしい。