5月30日(土)は午後5時35分頃に羽地内海の様子を見に行った。屋部3号と5号、呉屋5号と7号などのランプウェイ台船は、羽地内海にとどまっている。
ガット船については普段、インターネットで位置を確認することが多いのだが、名護の市街地でも海岸や高台に行けば、塩川沖の様子が見える。写真はナングスクから撮ったもの。
ナングスクに「白い煙と黒い煙の碑」がある。私の父方の祖母は明治の生まれだったが、10代の頃、神奈川の紡績工場に働きに行った。大正から昭和にかけて、ヤンバルの貧しい農家の少女たちが、紡績女工になるためヤマトゥ旅に出た。
那覇を出発した船が本部半島の沖を通る時、那覇まで見送りに行けなかった両親は、高台で火を焚き、煙を上げて娘に思いを伝えた。船の黒い煙と見送る白い煙。それはヤンバルのあちこちで上がっていただろう。
祖母が紡績工場から沖縄に戻って半年ほど経った頃、関東大震災が起こった。沖縄人は共通語がうまく話せなかったので、朝鮮人と間違えられて殺されそうになった、という話を子どもの頃、祖母から聞かされた。実際に体験した人の話が、村の中で伝わっていたのだろう。
梅雨の雨に濡れる緑の中で、「白い煙。黒い煙の碑」は海に向かって立っている。沖に見えるのはヤマトゥ旅の船ではなく、辺野古の海を破壊するガット船の集団だ。歴史と現実が交錯する眺めだ。