28日(木)は朝から風が強く、カヌーで海に出るのは厳しい波だったので、抗議船(平和丸)を1隻出して、K1護岸からK9護岸まで各作業現場の様子を見て回った。
K1護岸では、午前8時24分には土砂を積んだダンプカーがやってきて、②-1工区への土砂投入が始まった。護岸の上に積んだ根固め袋材の一部をどけて、ダンプカーがバックで海に向かう出入り口が作られている。その近くに平和丸を停泊して、抗議の声を上げた。
②-1工区では、大型クレーンを使ってK4護岸の外側に、消波ブロックを置く作業が行われていた。同作業は②-1工区への土砂投入と同じく、25日の午後から行われている。縦に3個を1列で置き、各列の間に消波ブロックを1個置く形で設置されている。
写真の消波ブロックには、「H27 K 20t NO145」と記されているのが確認できる。20トンの消波ブロックが設置されているが、この日は海が荒れていたせいか1個置くのに15分ほどかかっていた。
陸上の映画館そばには完成した消波ブロックが多数保管されている。また、奥の方では消波ブロックの型枠やできたばかりの物が並べられている。トレーラー車に消波ブロック1個を載せると、②-1工区に運んできて、大型クレーンでK4護岸越しに設置作業を行っている。連日、ゲートから入ってくる生コン車は、この消波ブロックやK8護岸の被覆ブロックを制作するためのものだ。
K4護岸の内側では、②-1工区の埋め立て用土砂を運んできたダンプカーが、荷台を傾けて土砂を下ろしていた。
K8護岸では昨日から捨て石の投下が再開されている。幅が約2・5メートルの被覆ブロックが22個並べられ、この地点までが約55メートル。その先にさらに10メートルほど捨て石が伸びている。サンゴや海底の生物を押し潰し、水しぶきを上げて採石が海を破壊していく。
長島の間を抜けて大浦湾に出ると、K9護岸の様子を見に行った。ランプウェイ台船が接岸し、土砂の陸揚げが行われていた。上の写真は午前9時46分の段階で、まだ大量の土砂が残っているように見えるが、午前中で陸揚げを終えて次の台船と交代していた。
K9護岸の沖では、第八藤進からランプウェイ台船に土砂を積み替える作業が行われていた。ガット船はほかに第二十八旭丸と第十八福昌丸がこの日の朝に大浦湾に入り、次の土砂積み替えを待っている。ランプウェイ台船はどれも土砂が載った状態で、K9護岸での陸揚げが終わると積み替えが行われる。
大浦湾側から見ると、海保の浮桟橋がある海岸の崖の上にレーダー施設が作られているのが見える。米軍の施設だと思うが、何の役割を果たしているのだろうか。
1945年の3月26日から28日にかけて、慶良間諸島では日本軍の命令、強制によって住民の強制集団死が起こった。4月1日には米軍が沖縄島に上陸し、住民を巻き込んだ地上戦が行われる。この島に住む者が歴史を忘れれば、再び沖縄は「捨て石」として「本土防衛」のために利用され、悲惨な死を強制される。
与那国島から奄美諸島まで、琉球列島全体が中国に対抗する盾と矛として軍事要塞化されている。歴史は何度でも繰り返される。沖縄人、奄美人がそれを拒否しない限り。