先だって父の1年忌を終えた。父は60代半ばになって筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患い、14年余の闘病生活を送ったすえに、昨年7月に他界した。ALSは全身が動かなくなる難病で、理論物理学者のホーキング博士や医師で元衆議院議員の徳田虎雄氏などが患者として知られている。
筋力は低下しても意識ははっきりしているので、病の進行とともにしだいに体が動かなくなっていく現実に、患者は日々向き合わなければならない。自力呼吸ができなくなった時、人工呼吸器をつけて延命するか否か、患者は選択を迫られる。父の場合は、在宅治療中に呼吸困難を起こし、救急車で病院に搬送されたこともあって、人工呼吸器を着け長期入院することとなった。
入院中、主治医のY医師や看護士の皆さんには手厚く看ていただいた。病院側の配慮がなければ、14年余生きることはできなかっただろう。いくら感謝してもしきれない思いだ。国は在宅介護を勧めているのだが、24時間の介護を家族でどれだけになえるか、個々の家族で条件は違う。生活地域でどのような医療・介護サービスを受けられるかが、患者や家族にとってきわめて重要な意味を持つ。
7月16日付東京新聞電子版に「難病・ALS 命の介護になぜ差が…」という社説が載っている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012071602000107.html
「七割の患者は迷惑をかけるからと、自らの意思で呼吸器を拒む」。これが日本の医療・公的介護の現実である。
ALSの患者に対しては、痰の吸引をはじめ、体の向き変え、マッサージ、食事、排泄、入浴などの世話のほか、痛みやかゆみがあっても体を動かせず、声も発せない患者のために、常に手助けが必要である。瞼の動きや視線、舌先で出す音、文字盤などで患者の意思を読み取るのは容易ではない。意思を伝えられないもどかしさ、介護者のちょっとした言動に、患者は無力感や絶望感にさいなまれる。
意思をまったく伝えることができなくなった時への不安や恐怖、家族に迷惑をかけたくない、という思いから、「自らの意思で呼吸器を拒む」患者も出てくる。しかし、この「自らの意思」という言葉には注意が必要である。患者が置かれている条件によって「自らの意思」も変わってくる。医療・介護の条件が整い、家族の負担を少なくして延命できるなら、呼吸器を着けることを「自らの意思」で選択する人は増えるだろう。
これはALSなど難病患者だけの問題ではない。人は誰しも老い、体の自由がしだいにきかなくなり、最後は寝たきりとなる人も多い。いずれ介護の手を必要とする時を誰もが迎える。長年病院に通い、父や同室の患者たちの姿を目にし、医師や看護師たちの献身的な仕事ぶりを見ながら、医療・介護分野に何を置いても予算措置をほどこすことの重要性を痛感した。米軍のために数千億円の予算を使って新しい基地を造るなど論外である。難病患者をはじめ誰しもが、生きる希望を見出せる社会にしなければならない。