前日18日には伊仙町歴史民俗資料館の四元氏の案内で、島の南部を見学した。
最初に天城大橋から景色を眺め、、戸森の線刻画、犬田布騒動記念碑をまわる。
友利の線刻画は、岩の表面に船や魚の絵が刻まれていて、森に囲まれた空間が持つ雰囲気は沖縄のウタキを思わせた。
犬田布騒動記念碑の近くに、2009年の薩摩侵攻400年に際して建てられた「歴史の見直し 犬田布義戦 由来書」と題す説明板があり、次の一節が記されていた。
〈今からおよそ百五十年前に伊仙町犬田布集落で起きたこの事件は今日まで「犬田布騒動」の名称で伝えられてきたが、「義」を篤く愛するゆえの勇気ある島民の行動を「騒動」とすることは、公正さを欠く不適切な歴史表現である。よって、薩摩侵攻四百年の節目の年に、この歴史的事件の名称を「犬田布義戦」と改める〉。
犬田布岬からの眺めと岬に立つ「戦艦大和を旗艦とする艦隊戦士慰霊塔」。
慰霊塔は戦艦大和の艦橋と同じ高さとのこと。巨大な塔の下部には「艦隊戦没者」3737名の名前を記した金属板がはめ込まれている。すでに制海・制空権を米軍に奪われているなか、護衛機もなく沖縄に向かって出撃すればどうなるかは、大本営の参謀は元より艦隊員たちも分かっていた。沖縄の第32軍も「情勢は変わらない」と大和派遣の辞退を返電している。しかし、大和はすでに出撃していた。
沖縄にたどり着けないのは自明なのに、大本営の参謀たちは「国体護持」という大義名分を掲げ、艦隊員をむざむざと犠牲にしていったのだ。どれだけ美辞麗句を並べ、殉国美談で飾り立てようとも、兵の命を軽んじた「特攻と玉砕」という思想、作戦の愚劣さは隠しようがない。それは多くの住民の犠牲を生み出した沖縄戦にも通じている。
続いて犬田布海岸の塩田跡とメランジ堆積物、泉重千代像と住居、カムイ焼き窯跡、泉芳朗像を案内してもらった。懇切丁寧な説明をいただいた四元氏に感謝します。
徳之島への往復はフェリーを利用した。行きも帰りも修学旅行の小学生が乗り込んでにぎやかだった。与論の港に泊まったとき、海中を泳ぐウミガメの姿が見えて、小学生たちが喚声を上げていた。読書に疲れたら甲板にでて海を眺め、本部港まで約8時間の船旅をすごした。