5月19日に「ゆいまーる琉球の自治in徳之島」が伊仙町のほーらい館で開かれたので参加させてもらった。主催はNPO法人ゆいまーる琉球の自治で共催は自治労大島地区本部・伊仙町職員組合。
19日は午前中、教育者・詩人であり奄美復帰運動の中心人物でもあった泉芳朗についての報告と討論、午後は以下の4本の報告と討論が行われた。( )内は報告者。
報告?「TPPと徳之島農業〜琉球弧の視点から〜」(松島泰勝:龍谷大学国際経済学科教授)
報告?「米軍基地移設反対運動」(中原智浩:自治労大島地区本部書記長、天城町職員労働組合)
報告?「疎開船の悲劇〜武州丸からのメッセージ」(幸多勝弘:徳之島郷土研究会)
報告?「核燃料再処理工場徳之島立地案の意味する問題」(樫本喜一:大阪府立大学)
サトウキビの生産を主とする徳之島の農業にTPPが与える影響や普天間基地移設先として挙げられた徳之島での反対運動の状況、米潜水艦の攻撃を受けて沈没し、奄美の人々が犠牲となった疎開船武州丸の歴史とそれを語り継ぐとりくみ、1970年代の核燃料再処理工場離島立地案の問題など、?〜?は現在の沖縄と共通する問題としてあり、?もかつて西表島で同様の計画があったことを思い出させた。私が大学生時代のことで、米軍基地だけでも大変なのに核燃料再処理工場まで沖縄に持ってくるのか、と憤激の声が上がっていた。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/095/syup/s095005.pdf#search='核燃料再処理工場 西表島'
同計画はいつの間にか立ち消えになったが、沖縄はビキニ環礁の水爆実験による放射能雨や米原潜の放射能漏れなど、これまで繰り返し放射能による汚染被害を受けてきた。ビキニ事件当時、天水を使用していた沖縄住民が受けた被害の実態は明らかにされていない。
http://www10.plala.or.jp/antiatom/jp/NDPM/Bikini/04bikini/Intlsymp/j_04bkn_yamashita.htm
疎開船・武州丸のことは今回初めて知った。元教師の幸多氏は、武州丸の悲劇を子どもたちに伝えるため紙芝居を作成しており、報告で紹介していた。遺族には国から補償がなされておらず、乗船名簿に記載されていない人も数多く乗ってたという証言もあり、実態が未解明の部分も多いという。遺族からの聞き取りや平和学習のとりくみなども紹介されていた。
徳之島のあちこちに普天間基地移設反対の看板が残っていた。中原氏からは徳之島での反対運動の取り組みの経緯が報告された。2010年の1月に問題が表面化してから、早い段階で島が一つにまとまり、4月18日に1万5千人余が集まって「普天間基地徳之島移設断固反対郡民大会」が開催された。その成功が力となって徳之島移設案は消えた形になっている。しかし、島ではまだ警戒心が強く残っていることが感じられた。
鳩山政権当時、普天間基地の「県外移設」が模索されたが、具体的に示されたのは徳之島案だった。1945年8月の敗戦から1953年12月25日に「復帰」するまでの8年間、奄美諸島も日本から切り離されていた。来年は奄美復帰60年なのだが、徳之島移設案を打ち出した日本政府の奄美に対する認識は、いざとなれば沖縄に続いて切り捨てる場所としてある。徳之島移設案が示されたとき、私の目にはそう映った。
徳之島移設案は、沖縄「県外」だが琉球弧「圏内」だ、という言い方をした人もいた。沖縄県内、琉球弧圏内での基地のたらい回しには強く反対したい。敗戦から67年も過ぎ、普天間基地は無条件で返還されるのが本筋である。