沖縄はゴールデンウィークに入る直前に梅雨入りし、2日も朝から雨模様の一日だった。ヤンバルの野山はユリやイジュ、サンニンの白い花が見頃である。
67年前の今頃、沖縄島北部地域では、すでに本格的な戦闘は終わっていた。しかし、住民にとって危険はまだ去っていなかった。本部半島に配置されていた独立混成第44旅団第2歩兵隊(宇土部隊)や運天港の海軍部隊は、米軍の攻撃で4月中旬には壊滅状態となり、名護のタニヨ岳(多野岳)や周辺の山林地帯に潜伏していた。彼らが北部の住民にとっては脅威となっていた。
敗残兵となった皇軍兵士たちの中には、組織化した協力者(密告者)を使って住民の動向を監視し、スパイの嫌疑をかけて地域の有力者を虐殺したり、暴行、食糧強奪を行う者たちがいたのである。
那覇遺族会の『終戦五十周年記念誌 うむいかけて』に、金城トミさんの「戦争の思い出」と題した戦争体験記が集録されている。1944年(昭和19年)の十・十空襲で被災した金城さん家族は、トミさんの実家がある北中城村喜舎場部落に避難した。そこに3カ月ほどいて、戦局が悪化したのでさらに北に向かい、今帰仁村の玉城部落に移動する。夫は沖縄連隊区司令部に勤めており、移動の手伝いをしたあと首里に戻った(のち戦死)。義理の両親と幼い子ども3人、そしてトミさんの6人での避難だった。
今帰仁村でトミさんは、馴れない水くみや芋掘りに苦労するが、外間さんという地元住民に助けられて避難生活を送る。空襲や砲爆撃が激しくなって、山中の避難小屋での生活となるが、そこにもアメリカ兵が登ってくるという情報があり、昼は山の上に行き、夜は小屋に戻るようになった。しかし、小屋は米兵に焼かれてしまい、トミさん家族はお金や持ち物をすべて失ってしまう。そのしばらく後のことである。
〈山小屋も焼かれ住む所もなくなったので、又外間さんの家族と、村はずれの外間さんの畑小屋に一緒に住む事になりました。しかしそこに来て五日目に、部落の或る男の人が、この畑小屋に若い女が居るという事を兵隊に密告したらしく、兵隊がその晩私達の畑小屋に若い女を連れに来るという情報が入りました。
私は次女(当時一歳)を抱いて外間さんの奥さんと一緒に、一寸先も見えない暗やみの芋畑に子供と二人うつぶせになってじっとしていました。私は両手を合わせて「神様助けて下さい。兵隊がこの芋畑の廻りから歩いております。今兵隊に見つかったら私は殺されるか、連れて行かれるかの生死の別れ目(ママ)です」と胸の中で一生懸命お祈りしました。
兵隊は懐中電燈で探していましたが、しばらくするとあきらめて帰って行きました。娘が畑の中で一声でも出していたら、私はこの世にはいなかったと思います。私はその子に親孝行してくれてありがとうと抱きしめました。
丁度その時、畑小屋から大きな声で「おじいさん、おじいさん」という泣き声が聞こえてきました。私はびっくりすると同時に、自分の家族が殺されたと思い、胸はどきどきして自分は何処を歩いているのか、足もぶるぶるふるえていました。畑小屋に行って見ると、兵隊が父に「若い女をよこせ」とどなったら、父が「若い女はこの人だ」と母を指さしたら、バカヤローと怒って父の頭を棒で殴ったので頭から血が流れ、兵隊は血を見て逃げて行ったそうです。今でもその事を思い出したら身ぶるいします。それが私にとって戦争で一番思い出に残っている事であります。
戦争で共に苦労した主人の両親も亡くなりました。私達親子を支えて下さった両親に今でも大変感謝しています〉(134〜136頁)。
住民の中に日本軍に組織化された密告者がいたことは、私も肉親から聞いている。私の叔母は「日本軍のスパイ」と言っていた。一方で、住民は日本軍の動向を相互に伝えることで身を守っていた。日本兵が「若い女をよこせ」と言った理由は言うまでもない。もし芋畑に隠れているのを見つかっていたら、金城トミさんは暴行され、下手をすれば殺害されていただろう。
ヤマトゥと沖縄の戦争体験の大きな違いの一つがここにある。ヒロシマ・ナガサキの原爆体験や東京大空襲をはじめとした空襲体験の悲惨さ、過酷さは言うまでもない。しかし、空からの攻撃は敵軍によるものである。住民を巻き込んだ地上戦の中で、友軍と呼ん信頼を寄せていた味方の軍隊から、虐殺や暴行、食糧強奪、壕追い出しなどの仕打ちを受けるという体験は、ヤマトゥではなかった。
「アメリカぬぴーたいよか友軍ぬぴーたいがる、うとぅるしぇーたる」(アメリカ兵より日本兵の方が、恐かった)。私が子どもの頃、祖父母から聞いた言葉である。それは祖父母が今帰仁で体験した戦争と、目にした日本兵の姿から生まれたものだ。いざ戦争が始まった時、日本軍は住民が思い描いていたのとは、まったく違った姿を見せたのである。
それは今帰仁だけのことではない。沖縄戦全体で言えることであり、軍隊は住民を守らない、という沖縄戦の教訓は、地上戦での体験を通して住民が血であがなったものである。