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資料:『沖縄女性史研究第2号』より

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 1978年6月に発行された『沖縄女性史研究第2号 沖縄戦を生き抜いて』(沖縄女性史研究会)に宮城ツルさん(仮名)の「辻から壕へ−−戦火をくぐりぬけて−−」と題した手記が載っている。
 家の貧しさと兄の病院代のために宮城さんは、14歳の時に辻の遊郭に350円で売られた。17歳の夏頃から客を取らされるようになり、1944年の10・10空襲の時には21歳になっていた。空襲の前、宮城さんをはじめ辻の女性たちも、飛行場建設の奉仕作業や防火訓練に参加していた。
 手記では10・10空襲以後、宮城さんが体験した沖縄戦の様子が記されている。その中には、南風原の津嘉山にあったクラブ(慰安所)で慰安婦をしていた時のこともある。沖縄で慰安婦を強いられた辻やサカナヤの女性たちは、自らの過去を隠して戦後を生きた。宮城さんの手記は、体験者自身による数少ない証言だろう。
 第32軍司令部壕の説明板問題を考える資料として、南風原のクラブ(慰安所)の箇所ほかを引用して紹介したい。

〈私は十・十空襲で沖縄にいる身内を全部失ってしまいました。泣きたくても涙も出ませんでした。長堂に一週間位いて、辻の人皆一緒に泡瀬まわりで名護に行き、そこで一泊して、クンジャン浜の島袋屋という所に一週間ほどいました。名護から船で本土へ疎開しようと話をもちかけられ、那覇に貯金を引き出しに行きました。那覇の牧志郵便局は、焼け残っていました。貯金は、八百円七十七銭にもなっていました。当時私は、二番目の売れっこで、月に税金百円、アンマーに百円払い、着物を買った残りは貯金していたのです。貯金を引き出し、四百円をアンマーに渡し借金を返済しました。これでやっと自由になれた、普通の結婚をして幸せになろうと思いました。辻は、十一月頃復活し、ほとんどの人達は、そこへ戻りましたが、私は長堂に行きました。そこには部隊がいて、壕掘りや土運びをさせられました。辻で知り合った軍曹がそこにいて、たびたび私の所へくるようになりました。部隊が南風原に移動することになり、私も家族を失ってやけくそになっており、仕事もないしで、十一月に南風原の津嘉山に村屋を使ってクラブができていたので、そこへ行くことにしました。クラブというのは、慰安所のことです。南風原には二中隊二班、四、五十人の兵隊がいました。クラブには辻町のあちこちから集まった尾類(ジュリ)が、十人いました。クラブにはアンマーがいて、一回十円が相場でしたが、その半分はアンマーのものでした。私ともうひとりはムチチリー(専属)で、兵隊皆の相手はしませんでした。十二月に首里の検査屋で検査があり、私は性病にかかっているということで、一ヶ月位入院させられました。そこで妊娠を知りました。退院してきた時には子どもの父親である軍曹はもう特攻隊に出て行って、いませんでした。軍曹は、残った曹長に私のことを頼んでくれました。私たちは、炊事を手伝うこともありました〉(P 9〜10)。

 3月23日に米軍の艦砲射撃が始まると、クラブは閉鎖されて宮城さんは津嘉山の壕に入り、戦いに出る〈五七五三球部隊〉と行動を共にする。その後、一日橋の壕、識名の壕、真壁のカヤぶきの家、喜屋武部落とチカヒナ部落の間の壕、ハンザの壕と戦火に追われて南へ逃げていく。

〈識名の壕から出る時、皆はだしで、私はお腹も大きくなっているし、足はふくれ、股ずれはするしで、大変でした〉(P10)。

 喜屋武部落とチカヒナ部落の間の壕にいる時、米軍に〈毒ガスをまかれ〉、宮城さんは三、四日意識を失う。息を吹き返したあと〈私たちをいろいろかばってくれた曹長〉から、兵隊と一緒にいるとあなたたちまで殺されるから…と別行動をとるように言われ、米軍に〈みつかったら捕虜になるんだよ〉と教えられる。そして、6月23日にハンザの壕で米兵に見つかるのだが、その際に若い女性たちが強姦されたことを宮城さんは記している。

〈そこに来て十三日目、六月二十三日だったそうですが、鉄砲とピストルをもった三人のアメリカ兵が、私たちの前に立っていました。私たちは言葉もわからないし、大変びっくりしました。首里のおばあさんが私にも出なさいというんですが、私はお腹もずい分大きくなっており、こわいので出ませんでした。年寄りには何もしないだろうとこのおばあさんが、手を上げて
「助けてください」と外に出て行き、私たち十五人も全部出ていきました。もうアメリカに捕虜にされたんだなーと思っていると、当時十七歳と二十歳と二四歳のAちゃん、Bちゃん、Cちゃんが三人の米兵に一人づつ山の方へ連れていかれました。一人づつ山で殺すのかと思って、私たちがついていこうとすると、鉄砲をつきつけて、ゴー、ゴーとおどすので、誰も動けませんでした。一時間位して三人共帰ってきましたが、持物も全部とりあげられ、二人は出血していました。強姦されたといっていました。戦後一人は料亭で踊り子になっており、二人は結婚しましたが、子どもができません。アメリカ兵は私をみて、ベビーベビーといっていましたが、お腹の子どものおかげで私は助かったのです〉(P11)。

 「捕虜」となった宮城さんは、宜野湾の野嵩収容所で9月に出産する。しかし、赤ちゃんは栄養不良で40日目に死んでしまう。

〈そこの収容所で九月に男の赤ちゃんを産みました。軍病院の看護婦をしていた人が、お産させてくれました。足もふくれて働くこともできず、配給をもらいにも行けず、私は栄養不足で乳も出ないし、ミルクをもってきてくれる人もいないしで、四十日目の朝、赤ちゃんは栄養不良で死んでしまいました。可哀想な子でした。今でも一人の時は思い出して、涙が出ます。このことは何年たっても忘れることはないと思います。収容所では、軍作業で兵隊の部屋のそうじや洗濯などがありましたが、収容所でアメリカ兵に暴行された女の人も多かったようです〉(P11)。

 収容所を出たあと、宮城さんは糸満や那覇で働き、南洋から引き揚げてきた男性と一緒になる。〈ミカン売り、いわし売り、人足などいろいろ生活のためにやりました。五人の子どもたちも成長しましたが、もう戦争はこりごりです〉(P12)と記して手記を終えている。


 


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