3月28日午後1時半から渡嘉敷村の慰霊祭が白玉之塔で開かれた。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-03-29_31686/
慶良間ツツジが咲き残るなか、沖縄戦の犠牲者に向けて哀悼の言葉がつづいた。式次第は以下の通り。
一、開会の辞 渡嘉敷村副村長 大城良孝氏
二、式辞 渡嘉敷村村長 座間味昌茂氏
三、黙祷 司会 座間味村民生課長 島村清氏
四、追悼の言葉 渡嘉敷村遺族代表 吉川嘉勝氏
五、平和の詩 児童・生徒代表(渡嘉敷小中学校)
六、来賓挨拶 渡嘉敷村議会議長 小嶺源一氏
七、献花・焼香 村長・遺族代表・村議会議長
八、一般焼香
九、閉会の辞(司会)
遺族代表・吉川嘉勝氏の追悼の辞を以下に紹介したい。
平成24年渡嘉敷村慰霊祭追悼の言葉。
あの辛酸な沖縄戦、「集団自決」から67年の歳月が流れました。ここ白玉之塔では、49年忌以降、自由参拝をして参りましたが、復帰40周年の節目にあたり、本日、村内外から多くの参観者を得て、こうして久々に村主催の慰霊祭を行っています。村当局に感謝申し上げます。
戦争で犠牲になられた皆さん、天国で安らかにお眠りください。渡嘉敷島「集団自決」場の惨事を体験し、あの時をやっと記憶している世代も、70歳半ばを迎えようとしていますが、昭和20年3月28日のあの出来事は、今なお日本社会の荒波となって吹き荒れております。
しかし、体験者はこのことの真実を発信し続けていますので、御霊となったお父さん、おじさん、おばさん、一緒に遊んだいとことたち、そして、村や県内外の皆さん、天国からみんなを見守り、安らかに眠ってください。
白玉之塔には、兄古波蔵嘉助をはじめ、日中戦争の犠牲者も刻銘されています。私は兄の顔を見ていません。せめて、一度でいいから、嘉助兄さん、と呼んでみたかったです。残念です。無念です。戦争を心から憎みます。他の遺族も、同じ思いであります。
赤松隊の犠牲者の将兵も、島人によってこの塔に納骨されています。また軍夫として朝鮮から来た人々や、朝鮮のお母さんに女の子を預けて働いたが、連行され、この島で犠牲を強いられた慰安婦のハルエさんも、心ある島人(シマンチュ)によって、皆さんと一緒に葬られたと聞いています。
天国へ旅立った島外の皆さん、自由な身となり、大空を駆けめぐり、さまようことなく、母国の父や母のもとへお帰りになったでしょうか。皆さん、父母のもとで安らかにお眠りください。
戦争は人間の理性を奪い、時に野獣以下にします。沖縄戦、そして、この島の「集団自決」場の惨事が、そのことを人々にもろに証明しています。いかに理由を付けようと、戦争は絶対に人類世界にあってはいけないということであります。
今時大戦を生き延び、残された人々は、戦争の愚かさを背負いながらも、平和な明日を夢見て、日々精進し、今日の豊かさを構築してきました。これからのちも平和で豊かな日本社会が、永遠に続くことを願って止みません。
戦争体験者が日々減少する昨今ですが、皆さんから命を繋いだ者たちは、49回忌でお約束しましたように、これからもこうして、犠牲者の霊を慰め、戦争の愚かさを語り継ぎます。そして、平和社会の構築に努力します。
天国の皆さん、人々を守り、安らかにお眠りください。
平成24年3月28日 渡嘉敷村在住遺族 吉川嘉勝
慰霊祭のあと、少しだけ金城重明氏の話を聞く機会があった。
〈沖縄戦は「軍民共生共死〉だと言われるが、渡嘉敷島では「軍生民死」だった。軍は組織的に生き延び、民は死んでいった〉
〈最初から死ぬつもりだったら、阿波連から北山(ニシヤマ)まで、わざわざ移動したりなんかしません。死ぬんだったら、自分たちの集落で死んでいる。食料として少しだが米も持って移動した〉
という言葉が印象に残った。赤松隊の命令を受けて北山に移動した段階では、渡嘉敷島の住民の多くは死を決意していたわけではない。赤松隊を頼りにして生きるために避難し、新たな場所で壕を掘る鍬や避難小屋を作るために草木を切る鎌、なた、食料を持っている住民もいた。しかし、生きるために持っていた道具が「玉砕場」で肉親の命を絶つ道具に変わってしまった。
赤松嘉次元隊長は戦後、雑誌『潮』1971年11月号で、住民が北山に〈集結していたことすら知らなかった〉(P217)と書いている。一方で、戦後作成した「陣中日誌」から3月28日の記述〈……小雨の中、敵弾激しく、住民の叫び阿修羅の如く陣地彼方において自決し始めたる模様〉(P217)という一節を引用している。(自決は翌日判明したものである)という自注が付されているが、〈阿修羅の如く〉という〈住民の叫び〉が赤松隊長には聞こえなかったというのか。
住民の阿鼻叫喚の声は米軍にも聞こえていた。米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』(光人社NF文庫)にはこう記されている。
〈渡嘉敷島北端に野営していた第三〇六連隊の兵士たちは、三月二十八日の夜、はるか遠くに何回となく爆発音や苦痛のうめき声を聞いた〉(P70)。
島の〈北端に野営していた〉米軍にも〈爆発音や〉住民の〈苦痛のうめき声〉が聞こえていた。米軍よりずっと近くの日本軍には〈阿修羅〉のような叫び声が聞こえていたし、手榴弾の爆発音も聞こえていたはずだ。当然、部下は隊長に報告する。普通なら隊長は偵察を出して、何が起こっているかを確認させるだろう。陣地周辺で起こっている状況を把握しなければ、陣地の防衛もできはしない。もっとも、女性の叫び声が聞こえた時点で、近くに住民が〈集結して〉いることは判断できたはずだ。
住民が北山に〈集結していたことすら知らなかった〉ということは、赤松元隊長には住民の叫び声やうめき声、手榴弾の爆発音が聞こえず、部下の報告もまったくなかったということだ。そういうことがあり得るか。赤松隊の「陣中日誌」や米軍の記録からすれば、赤松元隊長の主張はとうてい信用できず、住民の北山移動が自分の命令・意思とは無関係に行われたものであるかのように描き出すための、作為にしか見えない。
住民が米軍の「捕虜」となり、情報が漏洩することを防ごうとするなら、上陸地点近くの集落とその周辺から住民を北山に移動させるのは、軍事的に合理性があるだろう。沖縄島に上陸作戦を行う米輸送船をマルレで奇襲攻撃するため、海上挺身隊の隊長たちは、他の部隊に比べても情報漏洩を警戒していた。そのことは宮城晴美著『母が遺したもの』(高文研)で明らかにされている。
マルレを自沈して山地に移動してからも、赤松隊長は住民を徹底して監視し、米軍の「捕虜」となったことを理由に住民虐殺を繰り返している。防諜に対するその強固な姿勢を見れば、『潮』の手記で住民の動向を知らず、関心もなかったかのように書いているのは、赤松元隊長の自己保身にもとずく欺瞞であることが分かる。自己保身から事実を歪曲しようとするが故に、不自然さや矛盾が生じているのである。