千原繁子著『カルテの余白』(若夏社)は1978年9月に発行されている。その中に「遊女の代筆」と題した随筆があり、首里にあった〈将校慰安所〉についての記述がある。〈元富原医院が日本軍に接収され〉辻の〈兼久楼の芳子〉という女性が〈将校慰安所〉をやっていたという。また千原氏は〈虎頭山に布陣している砲兵隊将校の現地妻達〉についても記している。第32軍司令部壕周辺あった慰安所について記した証言であり、以下に資料として紹介したい。
千原繁子氏は1898年9月17日に那覇市若狭町に生まれた。1915年(大正4年)に東京女子医学専門学校に入学。1928年(昭和3年)に沖縄に戻り那覇市内で千原小児科医院を開業。沖縄の女性医師の先がけとなった。
〈昭和二十年四月一日。米軍の沖縄上陸戦が始まった。「北に行け。」との軍命があるとかで、あてもなく歩いたら夜が明けて、左側の海に、四十数隻の軍艦から中飛行場を中心に撃って来るのが見えた。とても通り抜けられないと思って、首里に引き返した。
元富原医院が日本軍に接収されていて、遠縁に当たる兼久楼の芳子が将校慰安所をやっていて、石穴壕もあり、井戸、野菜畑もあることを知っていたからである。
芳子は喜んで迎えて、女子供だけで心配だから是非一緒に居てくれ。食料も充分あるという。渡りに船ととどまることにした。女二十四人、芳子の家族五人が住んでいる完全壕である。
目と鼻の虎頭山に布陣している砲兵隊将校の現地妻、この人たちが食事の世話一斉してくれるので、ここでこのまま戦争が終るなら有り難いなと思った。
砲兵隊長は、神崎大佐、次長は滝沢中佐(金沢の人だった)。将校達はチョイチョイ兵隊を使いに寄こして、それぞれの女達に何事かを伝えているようだった。
天長節、女達はイソイソと葛餅を作り、日の丸を垂らし私が指揮者となって「今日のよき日」を合唱した。決死隊二人が葛餅を虎頭山に届けることになった。滝沢中佐の彼女、恵美子(24歳)から、空襲と艦砲が静まったら出発する二人に託する手紙の代筆を頼まれた。彼女は遊女とは思えないほど、いんぎんで親切な妓(こ)だった。中央楼にいた時からの顔見知りである。ノートを二枚ちぎって彼女の沖縄後を翻訳しただけでなく、美文調で戦争標語の有りったけを並べ、漢語や熟語も正確に使い、「中佐殿の命令さえあれば弾運びくらいはこのいやしい身でも……」と蛇足まで加えた。そのうえ、よせばいいのに、退屈だったせいか、調子に乗って、万葉の防人の妻の歌を最後に書いた。
翌三十日の未明に、二人の決死隊は帰って来た。中佐はローソク六本で飯盒の飯をたいていたので手伝ってあげて喜ばれた。そして二、三人の同僚と食べながら、恵美子の手紙を見て驚いて、「沖縄の遊女って大変なもんだな。家内の手紙より素晴らしいじゃないか。」と披露していたとか。恵美子は後暗いのか、ただ静かにうなずいていた。私は戦争に勝って、中佐と生きて会うこともあらば、笑い話にもなろうと思った。
江戸時代の名句に、「今頃は駒形あたりほととぎす」というのがある。吉原の遊女が後朝の別れを惜しみつつ客を送り出し、戸をあけたまま、明け行く空を眺めて思いを馳せた、とされている。しかし、これは有名な俳人の代作ということになっている。また「じゃがたらぶみ」もそれと同じだとされている。
五月二十五日中佐から、「全員、南に下がって命を全うせよ。今まで一発も撃たなかった十六門の砲で、今晩いっせいに応戦する。一発撃てば五十発は返しが来る。」との伝言がきた。
思い思いに出て行った壕の連中で、助かったのは十人足らず。恵美子は、どこでどうなったか不明。滝沢中佐は八重洲山に下がってから戦死されたと聞いた。〉(昭和51年10月9日)(P180〜182)。
虎頭山(とぅらじやま)は首里城の西方にある丘陵で、名前の由来は下記のサイトを参照のこと。
http://archive.library.pref.okinawa.jp/?page_id=7122
1980年6月に発行された沖縄タイムス社編『私の戦後史 第2集』(沖縄タイムス社)に千原繁子氏の個人史が載っている。その中に、沖縄戦で毒殺された兵士達についての証言がある。医師として自ら関与した者の証言である。併せて紹介したい。
〈一九四四年の十・十空襲で家が焼かれてしまったので、真和志村上之屋にある親せき宅にひとまず落ち着き、結核診療所の奨健寮へ月給百円で勤め出した。それもしばらくで翌年の四月には米軍が上陸、壕から壕へさすらいの旅を続ける毎日だった。わずかな食料と一緒にメス、注射器、包帯、薬などを持っていたが、まさかこれが意外なところで使われるとは思いもよらなかった。
東辺名の軍の壕に隠れている時「役に立たない兵は殺せ」という秘密命令が出た。情報がもれたらいかんという訳だ。壕の中には手が腐れかけた者、両手がないものと重傷兵がたくさんいた。「自分で死ぬからやめてくれ」という兵士と衛生兵のやりとりが聞こえてきた。命令を実行に移しているらしいが、うめくだけで一人も死なないようだった。しばくして「お見苦しい所をお見せしました。注射を打っているのですが、なかなか死ななくて……」と衛生兵が言うので「何を注射しているのですか」と聞くと「薬もなくなったのでヨーチンを使いました」と答える。「ヨーチンじゃ痛いだけで死なないでしょう」と昇こう水の錠剤を渡した。それを水に溶かして次々と注射して殺していた。仕方がなかったのであろう。「殺せ」という命令は絶対で、こうでもしなければ撲殺する方法しかなかったのであろうと思う。生き地獄とはあんなものをいうのだろう。
それから三日後に喜屋武の壕でとうとう米兵に捕まってしまった。夫と二女、そして七十二歳になる母が一緒だった。豊見城村伊良波の難民収容所に連れて行かれたが、二、三万人の人が生き残って集められていたのにはびっくりした。具志堅宗精さん(現オリオンビール?会長)や長嶺将真さん(現空手師範)に会い、よく生きていたと手を取り合って喜んだ。医者だというと、今度は北部の大浦崎にある収容所に連れて行かれ、捕虜のための診療所勤務を米軍から命ぜられた。捕虜になった住民は、すでに平和になった北部や中部に設置された収容所に集められ、戦況の激しい南部の戦線から隔離されていたのである〉(P222〜223)。
すさまじい事実が淡々と記されている。これが沖縄戦の実相である。