第32軍司令部壕説明板の翻訳用文案から、仲井真県当局が「捨て石」という記述を削除したことが問題になっている。「捨て石」は沖縄戦の本質を端的に示す言葉として使われてきた。また、サンフランシスコ平和条約を結び日本が主権を回復する一方で、沖縄を米軍支配下に切り捨て、施政権返還後も基地被害・負担を集中させてきた、「戦後」の日本と沖縄の関係を象徴的に表す言葉でもある。説明文の中でも最重要な言葉といえるが、それをあえて削除するところに、仲井真県当局の本音が見えている。それは他に削除された言葉や、書き換えられた表現を見ると余計に明らかになる。
3月17日付琉球新報に「第32軍司令部壕説明文案から翻訳用文案で削除、変更された部分」が載っている。削除された部分を[ ]で、書き換えられた部分を【 】(→ )で示し、以下に引用する。
[第32軍の創設と司令部壕の構築]
1944年[(昭和19)]年3月、南西諸島の防衛を目的に、第32軍が創設されました。同年12月、司令部壕の構築がはじめられ、[沖縄師範学校など]多くの学生や地域住民が動員されました。1945[(昭和20)]年3月、[空襲が激しくなると、]第32軍司令部は地下壕へ移動し、米軍との決戦にそなえました。
壕内は五つの坑道で結ばれていましたが、現在、抗口は塞がれ、中に入ることはできません。
[第32軍司令部壕内のようす]
司令部壕内には、[牛島満軍司令官、長勇参謀長をはじめ]総勢1000人余の将兵や県出身の軍属・学徒[、女性軍属]などが雑居していました。戦闘指揮に必要な施設・設備が完備され、通路の両側には兵隊の二、三段ベッドが並べられました。[壕生活は立ちこめる熱気と、湿気や異様な臭いとの闘いでもありました。]
[第32軍司令部壕撤退]
1945年5月22日、日本軍司令部は、沖縄島南部の摩文仁への撤退を決定しました。本土決戦を遅らせるための、[沖縄を「捨て石」にした]持久作戦をとるためでした。5月27日夜、本格的な撤退が始まり、司令部壕の主要部分と抗口は破壊されました。司令部の撤退に伴う、軍民混在の逃避行のなかで、【多くの将兵と住民が命を落とすことになってしまいました。】(→多くの尊い命が失われました。)5月31日首里は米軍に占領されましたが、沖縄戦によって、[首里城正殿をはじめとする]琉球王国の歴史を物語る貴重な文化財は失われてしまいました。
引用は以上である。削除部分と書き換え部分を以下に整理してみる。
☆削除部分
・第32軍の創設と司令部壕の構築
・(昭和19)
・沖縄師範学校など
・(昭和20)
・空襲が激しくなると
・第32軍司令部壕内のようす
・牛島満軍司令官、長勇参謀長をはじめ
・、女性軍属
・壕生活は立ちこめる熱気と、湿気や異様な臭いとの闘いでもありました。
・第32軍司令部の南部撤退
・、沖縄を「捨て石」にした
・首里城正殿をはじめとする
☆書き換え部分
・多くの将兵と住民が命を落とすことになってしまいました。→多くの尊い命が失われました。
見出しや元号、固有名詞、具体的な状況描写などを中心に削除がなされている。外国人向けの説明板に元号が必要かなど、「要約」として妥当な面もあるだろう。だが、一方で、政治的意図を感じさせる削除が多々ある。
一つは、問題となっている「捨て石」という表現の削除だ。沖縄戦の本質を端的に示す言葉として、これまで沖縄戦を論じるときにキーワードとなってきた言葉である。見出しや具体的状況描写を削除するのは「要約」という説明もつく。しかし、わずか三文字でありながら重要な意味を持つキーワードを削除するのは、「要約」を言い訳にして沖縄戦の本質を隠蔽、改ざんしようとする政治的意図を感じる。
3月17日付琉球新報社説は次のように批判している。
〈1945年1月、大本営は帝国陸海軍作戦計画大綱を定めた。沖縄戦を戦う上で法にも等しい公的文書である。
そこには「皇土特ニ帝国本土ノ確保」を作戦の主眼とすると書いていた。沖縄を「縦深作戦遂行上の前縁」と位置付け、「前縁」では「極力敵ノ出血消耗ヲ図」ると定めていた。本土決戦に備える(縦深作戦〉ため、時間稼ぎをする(出血消耗を図る)のが目的なのだ。「捨て石」は、これを3文字に要約したものといえる。
故に、住民を守るはずの軍が住民を戦闘へ巻き込み、時に壕から追い出すなどした。沖縄戦の悲劇性の根源はこの方針にある。だからこそ、「捨て石」は沖縄戦の核心、象徴であり、その削除は本質を覆い隠すことになるのだ〉。
沖縄戦は日本軍にとって「玉砕」必至の戦いだった。すでに連合艦隊は壊滅状態にあり、航空作戦は特攻という自爆攻撃に頼るしかなく、武器・弾薬をはじめとした物資の補給も不可能となっていた。加えて、第9師団も引き抜かれた。戦力、物量ともに圧倒する米軍に対し、まともに考えれば勝てる見込みはないなかで、本土決戦準備の時間稼ぎとして、住民の犠牲が拡大することを知りながら持久作戦がとられた。まさに沖縄は捨て石にされたのだ。その事実を隠蔽し、歴史の歪曲を図ろうとする仲井真知事と県当局を断じて許してはならない。
県当局の政治的意図を感じる二つ目は、〈牛島満軍司令官、長勇参謀長〉という固有名詞を削除していることである。軍司令部壕の説明として、そこを指揮していた司令官の名前を削るのはきわめて不自然だ。説明板は日本語のほかに英語・韓国語・中国語の翻訳が付けられる。沖縄県は中国からの観光客誘致にとりくんでいるが、中国人観光客の中には、牛島満、長勇の名を目にして、南京大虐殺を想起する人もいるだろう。県当局はそこまで考えて削除したのかと勘ぐりたくなる。
三つめは、これまで「慰安婦」の記述削除が問題となってきたが、翻訳用文案では「慰安婦」どころか「女性軍属」まで削除され、まるで司令部壕に女性はいなかったかのような内容になっている。
本ブログではこれまで、首里の第32軍司令部壕における「慰安婦」「住民虐殺」について考えるために文献・新聞資料を紹介してきた。それらを読めば、事務作業や司令官らの身のまわりの世話をした女性軍属に加えて、第32軍が沖縄に来てから「慰安婦」を強いられた女性たち、辻の若藤楼、偕行社の女性たちも司令部壕内にいたことは明白である。
〈女性軍属〉という記述を残しておけば、どうして司令部壕に女性がいたのか、という疑問を抱く外国人観光客もいるはずだ。中には疑問を解こうと調べる人もいるかもしれない。仲井真県当局は、司令部壕に女性がいたという事実を隠蔽することで、そのような疑問さえ封じ込めようとしている。司令部壕の説明から女性の姿を消すこと。それは「慰安婦」を削除したことに輪をかけて悪質な歴史歪曲である。
四つめは、〈多くの将兵と住民が命を落とすことになってしまいました〉という表現を〈多くの尊い命が失われました〉と書き換えることで、沖縄戦の特徴である住民の犠牲の大きさを隠蔽していることだ。〈多くの尊い命〉と一般化し、抽象化、美化することで、島が戦場となることで殺されていった住民の姿が巧妙に消されている。〈捨て石〉という言葉の削除と連動し、これは沖縄人が受けた被害の実態を県当局が自ら隠そうとするものだ。
それとも関連して五つめは、翻訳用文案では住民虐殺の事実が最初から隠蔽されている。首里城南側にあった第六坑道口、第五坑道口の近く、師範学校の実習用水田で女性が虐殺された事実は、本ブログでこれまで見てきた資料から明かである。
現場をじかに見た3名の元師範学校生の証言があり、さらに八原博通高級参謀や濱川昌也衛兵司令もそのことに言及している。細かい点に違いはあっても、スパイの疑いをかけられた女性が壕内にいた女性たちに刃物で刺され、最期は日本兵によって斬首されたことは疑いようがない。にもかかわらず、仲井真県当局はこのことを歴史から消し去ろうとしている。
六つめは、具体的な状況描写を削除することで、司令部壕内や戦場の生々しさが消され、実感がつかみにくくなっていることだ。先に見た五点とも関連して、沖縄県当局は「要約」にかこつけて説明板から具体性や臨場感を消し、本来はより詳しい説明が必要なはずの外国人観光客に対し、むしろ不親切な説明をする結果となっている。
以上の六点をみると、そこには仲井真県当局の沖縄戦の改ざんを企む政治的意図が見える。チャンネル桜の呼びかけに応じた右翼グループの抗議を口実にし、むしろ利用して、仲井真県当局は積極的に沖縄戦について改ざんを進めようとしている。
仲井真県当局にとって、首里城は観光客を集めるために琉球王朝の華やかな歴史を伝える場ではあっても、沖縄戦の悲惨な歴史を伝える場ではないのだろう。むしろ悲惨さを取り除き、隠蔽し、司令部壕を埋めることで、一日も早く忌まわしい沖縄戦の記憶を消し去ろうとしているようだ。
県立博物館・美術館の館長に政治的人事を行い、文化といえば観光客向けのエンタメと考え、国家にとって都合の悪い沖縄戦の歴史は改ざんする。元通産省官僚の仲井真知事はその程度の人物である。