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資料:濱川昌也著『第三十二軍司令部秘話 私の沖縄戦記』

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 濱川昌也著『第三十二軍司令部秘話 私の沖縄戦記』(那覇出版社)は、1990年6月23日に発行されている。付録として著者の父・濱川昌俊氏の「久米島具志川村長の戦時日誌」が収められている。
 濱川昌也(はまがわまさなり)氏は1916年10月、久米島の具志川村(現久米島町)生まれ。沖縄戦の前年まで県の技手として沖縄県工業指導所科学部主任を務めていた。1944年9月に召集をうけ、第32軍司令部管理部付となり、衛兵司令の任に就く。司令部壕および牛島司令官の警備、防衛にあたり、首里、摩文仁の司令部壕の様子や第32軍幹部らの動向、人物評などとあわせ、慰安所やスパイ嫌疑による処刑、牛島司令官、長参謀長の最期など、貴重な証言が記されている。
 第32軍司令部壕の説明板問題を考えるうえで欠かせない文献であり、関連する部分を引用し資料として紹介したい。
 沖縄戦開始後の首里の司令部壕内の様子を、濱川氏は以下のように記している。 

〈洞窟内の居住者は、軍司令部職員の千数百人だったのが、戦争が激化するにつれて、次第に多くなってきた。戦争必至の情勢のころ、いったん解雇した女子筆生も再び洞窟に戻り、また、前に軍に関連した仕事に携わった民間人も軍を頼って洞窟に入り込み,その数は二千人近くになってしまった。
 その中には、参謀長から軍属に任命された西岡女子師範学校長や、参謀長から盃を貰ったという満州ゴロを自称する子分たちもいた。得体の知れない婦女子は、軍偕行社に働いていた辻出身の姫君たちとのこと。色香もあってよいことではあるが違和感がしてならない。
 こういう戦闘司令所にはふさわしくない人々が集まる副官部前とは別に、参謀部前から情報班、電報班前にかけては、将兵が忙しく立ち回り、前線の隷下部隊からきた戦塵にまみれた命令受領者、報道班員、情報伝達要員、あどけない師範学校生の千早隊の少年らが戦争を遂行しているという使命感にあふれて列をなしていた。
 このようにして、洞窟内はますます混雑を極め、収拾がつかなくなり、ついに整理せねばならない状態となった。
 特に監視の行き届かない第三、第四、第五の各坑道口には、用事で来訪した部外者が、用件終了後もそのまま滞留していた。これら部外者を即刻立ち退かせるようにとの命令を受けた。洞窟外のひどい弾丸落下の中に追い出すことは忍びなかったが、洞窟内の秩序と規律を守る衛兵司令としての私の職責上、涙を呑んで退去を命じた〉(P87〜88)。

〈司令官と参謀長には個室があり、軍司令官は重要な首脳会議以外には個室にいて、ときたま訪れる若い参謀連中が持ってくる決裁書類に目を通しながら、わが子を諭すように何か教示している以外は、静かに読書にふけっている日常であった。
 軍司令官閣下の個室に比べ、隣の参謀長の部屋では終日、賑わいを見せていた。ウイスキー瓶を片時も手放さない参謀長を取り巻いて、いろんな人々の出入りが激しく、時には女を入れてみるに耐えない痴態を繰り広げることもあった〉(P89)。

 首里の司令部壕に辻の女性たちがいて、長参謀長の部屋で〈女を入れてみるに耐えない痴態を繰り広げることもあった〉という濱川氏の記述は、前に見た上原栄子著『辻の華 戦後篇上』(時事通信社)の記述と一致する。
 濱川氏は衛兵司令として目にした、スパイ容疑で捕らえられた住民の取り調べの様子や処刑=虐殺についても記している。その中には〈上原某と名乗っていた〉女性の話も出てくる。

〈米軍が上陸してから七日経った。洞窟内では作戦に携わる参謀部、通信業務を行う電報班などを中心に、忙しく立ち回る部署の他に、暇を持て余している将兵もいた。
 そのころ、とりとめのない話にも飽きたとみえ、誰かがスパイ物語を作り出していた。戦場心理で人々は異常であるため、この話を信じ込んでいるようであった。
 流言飛語には次のようなものがあった。与那原、東北方にある運玉森から、ピカピカ光る発火信号が、中城湾上の米艦船に送られているとか、英語を話す沖縄人二世が多数米本土から送られ、沖縄本島に潜入してスパイ活動に従事しているとか、あるいは水源地にはスパイが毒物を投入しているとか……。
 これらの風評が飛んでいる矢先に、炊事場の水源地付近に、不審な人物がうろついているとの話が伝わったので、私は真偽のほどを確かめるべく、炊事場に駆けつけ、立哨中の玉城上等兵に質した。歩哨の玉城上等兵が語ったところによると、「挙動不審な五十年配の男が付近をうろついているので、尋問したら、応答の態度から常人と異なっているので、精神異常者と判断し、水を求めていたので、飲ましてから追い返した」とのこと。この話が坂口大尉の耳にも入ったようで、私は坂口大尉から呼び出しをうけた。「不審人物を何故連行して来なかったか。このような不審者はたとえ精神障害者でも射殺すべきであり、歩哨の取った処置は適切ではなかった。衛兵司令の監督不行き届きだ」と、激しく叱責された。私は玉城上等兵の執った行動について弁護したが、日ごろ、沖縄人を偏見視している薬丸参謀が側から、一昨日起こった事件(後述する)ともからめて、県人の悪口を並べたてるのを、私は無念の涙をのみながら我慢して聞いた。
 なお、ついでにスパイ容疑者として、軍司令部内で処刑された人についてもふれておきたい。
 その一人に、球部隊所属の兵隊が古波蔵付近で捕らえたという一人の女を軍司令部に連行して来た。陣地近くを徘徊していたとのことである。名前は上原某と名乗っていたようで、年のころは十八、九歳の娘であった。眼はトロンとしてうつろな眼をしており、明らかに狂女であった。
 最も憐れに思ったのは、与那原から連行されてきたAさんである。Aさんは軍司令部が坂下にあったころ、副幹部に勤めていた軍属であった。同僚としてつきあっていたこともある真面目な青年であった。四月中旬ごろ、独立混成第四十四旅団の兵隊によって連行されてきた。彼を見て我々は驚いた。精神に異常をきたしている人だな、と直感したが、取り調べに当たった将校は、どう感じたか知らない。将校は聞いていた。「君は確かに運玉森付近で敵に発火信号を送ったのか」。しかし、彼はとりとめのないことをいいながら、肯定するような態度をとっていた。
 側で見ていた当間軍曹は「ほんとうにやったのか、嘘だろう。正気になってほんとのことを述べなさい」と、必死になって諭しているのに、ただ虚ろな眼差しをして、いわれるままに肯定しているような態度を取っていた。
 ああ!いかんせん、彼は正気に戻らずそのままスパイとされた。
 スパイ容疑者のほとんどは、戦争恐怖症からきた精神異常者であり、なかには、尋問された場合、オドオドしてまともな返事ができないばかりにスパイにされた。
 首里記念運動場の地下には、数人の人々がスパイとして処刑され埋葬されたようだ。スパイ容疑者として処刑された実体(ママ)の多くはまだ解明されていない〉(P100〜103)。

 濱川氏は、1944年10月10日の空襲で焼け野原になった辻に「軍慰安所」ができたことや、そこにいた朝鮮人女性のこと、慰安所の規則、部下と慰安婦とのできごとについても詳しく記している。第32軍司令部壕における慰安婦の問題は、当時の沖縄における慰安所、慰安婦の状況を背景として知らなければ理解できない。長い引用になるが関連する資料として紹介したい。

〈焼跡の那覇の街、波之上宮近くの辻原に三角兵舎風の茅葺きの掘っ建て小屋が建てられ、その前に兵隊が列をつくっていた。
「何だろう。特別の配給品でも配っているのか」と思い、近づいてみたら入り口に筆太に「軍慰安所」と書かれた看板が立てられ、中から、だみ声のような下手な日本語で、「時間、時間、早く出ていけ」と、中にいる兵隊をせかす声が聞こえ、またカマス一枚で区切った隣の部屋では「チョセン、チョセンと馬鹿にするな!」と、兵隊と言い争う声が聞こえた。噂には聞いたが、これが朝鮮ピーだとはじめて知った。
 とにかく大繁盛であった。兵隊は青春のたぎりを吐き出すのに、鶏のそれのように、すっーという間にすましていた。娼婦一人で、一日数十人をこなしていたようである。
 戦後、辻原の慰安所にいたというコザ市に住む初老の婦人に偶然に会うことが出来た。その婦人は小さな飲み屋を経営しており、数回飲みに行くうちに顔なじみになり、心からうちとけ、彼女の過去の身の上話と慰安婦になるまでのいきさつを話してくれた。
 彼女は朝鮮の西部のある寒村で生まれた。戦争が始まった二年目のある日、面長(村長)が訪ねてきて、この村からも女子挺身隊として数人の割り当てがあり、あなたも志願してくれないかとすすめられたが、最初のうちは嫌だと断った。しかし、しつこく頼まれ、仕事は楽で金になる。ただ兵隊の身の回りの世話をすすればよいとのことで、ついに金につられて応募してしまった。
 そのころの面長は、同じ朝鮮人でありながら同胞を売るような人が多く、信用はできなかったが、金になる上に、女子挺身隊の名が格好良かったので、とうとう一生を台無しにしてしまった。
 女子挺身隊になるのだと、張り切って古巣を出たが奉天まで来て初めて慰安婦だと分かった。それでも説明では、兵隊の身の回りの世話をするだけだといわれたが、そのうち身体を提供することだと知り、だまされたと、泣きながら帰すように頼んだが、もう後の祭り。女衒に監視され、逃亡することもできず、支那大陸をたらい回しにされ、沖縄まで連れてこられたという。
 この慰安婦たちや、また、入隊前、通堂町税務暑構内であった数百人の朝鮮人軍夫といい、共に好言で連れてこられたのか、それとも強制的に連行されたのか、何れにしろ哀れに思えてならない。
 さて、慰安所は将校、下士官、兵用と区別され、那覇近郊には別に、首里桃原町の安谷屋付近と、天久にもあったと聞いている。では兵隊は、どのようにして慰安所を利用したのか、その利用法は次のとおりである。

 ◎慰安所規則
一、本慰安所は、陸軍軍人、軍属(軍夫を除く)の他入場を許さず。入場者は慰安所外出証を所持すること。
一、入場者は必ず料金を支払い、引替に入場券、サック一個を受け取ること。
一、料金は左の如し。下士官、兵、軍属、金三円。
一、入場券の効力は当日限り。
一、指定された番号の室に入ること。但し時間は三十分とする。
一、室内においては飲酒を禁ず。
一、サック使用せざる者は接婦を禁ず。

 慰安所は、支那事変中占領地で兵隊の強姦事件が相次ぎ、そのため軍が占領地対策としての必要悪から開設されたものである。これに便乗した悪徳連中が軍に協力するという美名の下に、各地から集めた婦女子で、日本人は大陸を渡り歩き、食いつめた者か、または水商売を転々と歩んだ流転の末の者が多かったというが、朝鮮人の場合は前述のように騙されて来た者が多かったようだ。
 なお、この慰安所通いをする兵士は、大陸から転戦してきた兵か、あるいは童貞を失った好色な兵で、大多数の兵はそういうことに潔癖感を持った純真な青年であったことを付け加えておく。
 ある日、慰安所で私の部下、草野一等兵がとんでもない事件を引き起こした。
 前述のように軍慰安所は三階級に分けられているが、上玉はほとんど将校用に取られ、ブスを相手の兵隊はブツブツ不平をいいながら通っていたようだ。
 その日は日曜日で、兵に外出許可が出て、戦友とともに外出した草野一等兵は潔癖感の旺盛な青年で、戦友たちが遊ぶ間、一人で近くをブラブラしていた。そのうち、ふと近くの将校用の慰安所である立派な構えの民家から垣根越しに、自分に見入っている女の目を感じた。
 その女は、同郷の幼なじみであった。こういう所で出会うとは夢にも思っていなかった。
「やっぱり草野さんだわ」と、女はそれはもう喜んで草野に呼びかけてきた。そして草野は彼女に乞われるままに連れ立って彼女の部屋に入った。
 彼女は高級将校の専用だったようで、部屋には参謀肩章を吊した軍服が衣紋竿に掛けられてあった。女の情にほだされて、その後も草野は巧みに消灯後、兵舎を脱走して彼女の許に通った。
 ある日、酒好きな彼は当の参謀とっておきの日本酒を、故郷の話が弾むままに深酒して時間を過ごしてしまった。
 そこへ突然、その参謀が入ってきた。草野を見た参謀はカッとなって、彼女の前で草野を半死半生の状態になるまで殴打し、あげく兵営脱走の罪で、原隊へ再転属を命じた後、法務部送りにしてしまった。
 初恋同士の男女の再会は、悲しい結末で終わってしまったのである〉(P63〜68)。

 沖縄に来た第24師団は満洲(中国東北部)から、第62師団は北支(中国北部)から「転進」してきた部隊を主としている。中国大陸からやってきた兵士たちにとって、慰安所はあって当たり前のものだった。
 前に秦郁彦著『南京事件』(中公新書)の一節を紹介したが、秦氏は〈近代戦史に珍しい慰安婦随伴の日本軍という姿は、南京事件がきっかけとなって確立されたといえそうだ〉(P239)とし、〈上海派遣軍では、長参謀が主任となって幕僚会議で方針を決め、十三年正月の前後に南京でも慰安所が開設され、またたく間に各駐屯所に広がった〉(P238)としている。
 沖縄に配置された第24師団、第62師団が中国大陸から「転進」してきた師団であったこと、長勇中将が沖縄の第32軍司令部の参謀長であったことは、沖縄における慰安所の問題や首里の司令部壕説明板問題を考えるうえで、重要なことがらである。

 10・10空襲後に辻にできた慰安所については、1979年に発行された渡辺憲央著『逃げる兵 珊瑚礁の碑』(マルジュ社)にも記述があるので、書名だけ紹介しておきたい。同書は2000年に『逃げる兵 高射砲は見ていた』として近代文芸社から再刊されている。

 


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