写真は実家の庭のリュウキュウベンケイ。
以下の文章は『群像』2001年10月号の「一月一語」という欄に掲載されたエッセーです。
小学校三年生の時だから一九六九年のことだ。私の通っていた村の小学校は、三六名ずつ二クラスの小さな学校だった。今でもそうだろうと思うが、清掃を終えて下校する前にクラスに集まり、その日の反省や家庭への連絡事項を確認したりする帰りの会というのがあった。そのとき担任をしていたのは、三十代初めの女の先生だったのだが、ある日、一日のうちで方言を使った人は手を挙げなさい、と聞いた。「祖国復帰運動」が盛んな時期で、その中心となっていたのは沖縄教職員会、つまり学校の先生たちだった。
固き土を破りて
民族の怒りに燃ゆる島
沖縄よ
我らと我らの祖先が
血と汗をもて
守り育てた沖縄よ……
とか何とか、いう歌が盛んに歌われていて、米軍の圧政に対する怒りに満ちた反米民族主義的な運動が取り組まれていた。平和憲法のある祖国に一日も早く帰りたい。そういう思いに駆られたらしい教師や地域のリーダーたちは、沖縄の遅れた生活習慣や「方言」を恥じて、学校では「共通語励行運動」に取り組み、地域では「生活改善運動」を進めていた。
三年生の時の担任も、その忠実な実践者だったのだろう。誰も手を挙げないのを見ると、今度は、それじゃあ誰か方言を使うのを聞いた人は、手を挙げて言いなさい、と言った。何名かのまじめな生徒が手を挙げて、○○くんが方言を使いました、と注進した。
「私は方言を使いました」と書いた方言札までは、さすがに首にぶら下げられなかったものの、名指しされた生徒は、以後方言を使わないように教師に叱られた。
そんなことがあっても田舎の悪ガキたちが言うことを聞くはずがない。私たちは相変わらず方言で話しをしていた。
ある日の帰りの会の時、一番後ろの席にいた私は、隣の席のYとおしゃべりをしていた。ふと、Yが「ゆーしったい」という方言を使った。あ、今、方言を使った、というと、Yは不満げな顔をして、じゃあ、共通語で何というのか、と聞いた。しばらく考えて私は「ざまあみろ」と言った。
その時、Yの顔に浮かんだ笑みと、自分の胸に込み上げた恥ずかしさ、自己嫌悪を、今でもくっきりと思い出す。「ざまあみろ」それはテレビや漫画で覚えた言葉であり、私たちの言葉ではなかった。何ともきざったらしく、嫌らしい、よその世界の言葉。相互監視という教師の使った権力支配に従ったことへの恥ずかしさもそこにはあった。
以後、高校を卒業して大学に入り、那覇市で生活するまで、日常生活で共通語を使うことはほとんどなかった。