9日(金)は午後2時から嘉手納町の沖縄防衛局に行き、新基地問題を考える辺野古有志の会とティダの会による「沖縄戦戦没者の遺骨が混じった土砂の使用計画と辺野古側埋め立ての中止を求める申し入れ」に参加した。
ティダの会は、新基地建設に反対する辺野古の住民を支えて活動してきた。ティダの会と有志の会の中心となってきたのが、糸満市出身で南部の戦場を生き延び、辺野古で暮らしてきた島袋文子さんだ。30分と時間が限られていたので、今日の申し入れでは主に、文子さんに自らの体験を語ってもらった。
沖縄防衛局に渡した申し入れ文を以下に引用したい。
沖縄戦戦没者の遺骨が混じった土砂の使用計画と辺野古側埋め立ての中止を求める申し入れ
去る大戦で沖縄は住民を巻き込んだ地上戦が戦われ、軍民合わせて20数万人が命を落としました。当時の県民の4人に1人が犠牲となり、県民の多くは戦争犠牲者の遺族です。
沖縄戦では県内の中学校、師範学校、女子学校、女子師範学校、農林学校などの生徒が学徒隊として戦場に動員されました。青年学校に通う若者たちは護郷隊として、少年から老人まで幅広い年代の男性は防衛隊として、戦場の最前線で戦わされました。武器、弾薬もろくにないまま、米軍の砲火にさらされ、戦車に体当たりを命令されたりして死んでいったのです。
残された女性や子ども、老人たちも勤労奉仕として陣地構築、飛行場建設などに駆り出されました。そして、戦場を逃げ惑うなかで次々と斃れていきました。
沖縄戦では、住民にとって敵は米軍だけではありませんでした。日本軍による住民虐殺、壕追い出し、食料強奪も相次ぎました。飢えとマラリアなどの病で犠牲になる住民も多数出ました。
沖縄戦の末期、日本軍は沖縄島南部に撤退し、住民を巻き込んで戦闘を長引かせました。国体護持(天皇制維持)を最優先し、「本土決戦」のための時間稼ぎとして戦闘を長引かせ、いたずらに住民の犠牲を増やしたのです。
沖縄島南部の土砂には、そのようにして犠牲となった住民や兵士たちの遺骨が混じっています。そのような土砂を辺野古新基地の埋め立てに使用し、戦争の拠点を支える土台とすることは、戦没者を冒涜するものであり、県民の遺族感情を踏みにじるものです。断じて許されません。
現在、辺野古側埋め立て工区に投入されている本部半島の土砂も同じです。本部半島でも日米両軍の戦闘がありました。地元住民に加えて中南部からの避難民が山中に潜み、米軍の攻撃により犠牲者が出ました。いまだ遺骨が帰らない住民や学徒隊、護郷隊の遺族が北部にもいます。
敗戦後、沖縄の人々は肉親の遺骨を探して戦場跡を歩き回りました。遺骨を見つけることができなかった人々は、小石やサンゴのかけらを拾って厨子甕に入れ、墓に収めました。それでもあきらめきれず、今でも遺骨のことを思うお年寄りがいます。日本政府・沖縄防衛局は、そのような遺族の思いを踏みにじらないでください。
沖縄に、新たな軍事基地を造るために利用していい土地も海も土砂もありません。沖縄県民が望むのは、この島が戦争や軍事基地に利用されることなく、住民が平和な生活を送ることです。そして、いまだ山野に残る遺骨が収集され、手厚く葬られることです。
私たちは以下のことを求め、申し入れます。
沖縄戦戦没者の遺骨が混じる糸満市、八重瀬町地域をはじめとした沖縄全域からの土砂採取(計画を含む)をやめ、辺野古側海域への土砂投入を即座に中止してください。
以上、引用終わり。
南部の土砂はもとより、現在、辺野古側の埋め立てに使用されている本部半島の土砂を含めて、沖縄の陸にも海にも軍事基地建設のために使ってい場所はない、というのがティダの会の立場だ。
明日4月10日が文子さんの92歳の誕生日ということで、申し入れのあとティダの会から花束を贈った。
沖縄戦ぬくとぅ語りゆしーぬちゅー(人)ぬんいけらく(少なく)なといびーくとぅ、長生きしみそーりよー。
ティダの会共同代表の大城さんがメディアの取材を受けていた。小さな会だが、名護、辺野古の地で地道に活動を続けている。