12日(金)は午後3時から福岡高裁那覇支部で、私が2016年4月1日に米軍基地内で長期拘束された件に関する国賠訴訟の控訴審があった。今日で結審して判決は10月7日午後3時に言い渡される。
今日の裁判では10分ほど意見陳述の機会を与えられた。以下に裁判で読み上げた陳述書を引用したい。
2016年4月1日に名護市の辺野古崎付近で、米軍の憲兵隊に所属する沖縄人警備員に拘束されました。
当時、辺野古新基地建設の取り消しをめぐって国と沖縄県の間で行われていた裁判が和解し、辺野古の海、大浦湾で行われていた海底ボーリング調査は、一時的に中断していました。
そういう中、カヌーチームは連日、辺野古崎と長島の間に張られたフロートを越えて、大浦湾に片づけられていたスパッド台船やクレーン付き台船のまわりを漕ぎ、状況を確認していました。裁判が和解中のため、海上保安庁のゴムボートは遠巻きにカヌーの様子を眺めるだけで、規制は行なわれていませんでした。
辺野古崎付近の海岸にいる民間警備員や米軍の警備員もマイクで呼びかけをする程度で、辺野古崎付近のフロートを越えるカヌーメンバーに対し、手を出すことはありませんでした。しかし、4月1日はカヌーメンバーの一人と米軍の警備員がもめていたので、私は様子を見に戻って、二人を離そうとしました。すると、米軍の警備員が私のライフジャケットをつかみ、力ずくで岩場に引きずり上げました。
岩場に押し倒されたあと、米軍の警備員は私を立ち上がらせ、二人で両側から腕をつかみ浜の上の方に歩かせました。その際、警備員の一人が私の実名を呼び、「今上陸しましたよね」と言っていました。しかし、それは事実を捻じ曲げた言い方であり、私は力尽くで海から陸に引きずり上げられたのです。
そもそも、カヌーチームは海上での抗議行動や監視活動を目的としており、陸上に上がって行動することは目的としていません。また、辺野古崎一帯は埋め立て工事の作業ヤードにするため、米軍の施設が解体されて更地になっていて、上陸しても何の意味もない状態でした。
米軍の警備員は私を狙い撃ちして、拘束したとしか思えません。私の実名を呼んだことから、私を特定していたことが分かります。さらに最初にもめていたメンバーは放置して、複数で私に集中して襲い掛かりました。岩場で私を倒して押さえつけ、海水の溜まったところに危うく顔がつかるところでした。
それから、辺野古崎の浜の近くにあったアルソックのプレハブ小屋の所で米軍憲兵隊の兵士による身体検査を受け、メインゲートの近くにある憲兵隊の事務所らしき建物に車で運ばれました。車から降ろされた際、駐車場で通訳の女性に金高望弁護士の名前と電話番号を言い、すぐに連絡を取るように言いました。彼女は「そういうことは名護署に行ってからになります」と答えて、取り合おうとしませんでした。
その後、憲兵隊の事務所らしき建物の中で米兵の監視のもと、約8時間にわたり拘束が続けられました。最初は玄関ロビーの長椅子に座らされていましたが、途中からドアの奥にある廊下に連れて行かれ、隅に置かれた折り畳み椅子に座るよう指示されました。玄関ロビーと違い、そこは時たま人が通るくらいで、拳銃を腰に差した米兵と二人きりの状態で長時間の拘束が続きました。
濡れたウェットスーツを着たままだったので、4月1日とはいえ室内では寒くてたまらず、立ち上がって体を動かし続け、体を温めないといけませんでした。通訳の女性に寒さを訴えると、米兵が小型の温風機を持ってきましたが、古くて小さいので廊下に置いても効果はありませんでした。
当初、私は通訳の女性が言った「名護署に行ってから…」という言葉を真に受けて、すぐに名護署に連れて行かれるものと思っていました。しかし、いつまで経っても移される気配がないので、監視の米兵に通訳の女性を呼んでもらい、いったいどうなっているのか、と尋ねました。通訳の女性は「そうですよね、遅すぎますよね、私も困っているんです」と返事していました。
私は弁護士やヘリ基地反対協の安次富さんに連絡を取ってほしいと改めて頼みました。通訳の女性は、すでに連絡は取ってある、と言っていましたが、実際には連絡はされていませんでした。
外では弁護士や国会議員、ヘリ基地反対協、カヌーチームやゲート前で抗議しているメンバーなどが、私がどこに運ばれたのか、どういう状態に置かれているのかなど、現状を把握しようと奔走していました。しかし、沖縄県警や海上保安庁、外務省、防衛省などに問い合わせても、状況をつかめないままでした。
後でそのことを聞き、私はつくづく恐ろしくなりました。日本国内であるにもかかわらず、米軍基地内に連れ込まれて拘束されると、弁護士や国会議員が手を尽くしても、基地の外にいる人たちは、被拘束者の状況を把握できないのです。これでは手助けのしようもありません。こんなことが起こること自体が異常です。米軍基地内で行方不明になっているのと同じで、拘束された市民の人権は保障されていません。
法律に関して専門知識がない市民は、まず弁護士に相談しないと、適切な対応ができません。弁護士からアドバイスを受けることによってはじめて、自らの身を守ることができます。また、もし私に持病があり、薬を飲む必要があった場合には、弁護士を通して薬を手配する必要もあります。当日は寒さから低体温症になる危険もありました。私もそれを意識して体を動かし続けたのですが、もし体調不良をきたしたときは、弁護士に伝えて対応してもらう必要があります。
弁護士と接見、交通する権利は、日本国憲法に保障された重要な権利です。にもかかわらず、米軍基地の中で私にはそれが保障されませんでした。その理由はなぜなのでしょうか。海上保安庁が引き取りに来るのが遅かったから、というだけで片付けられていいのでしょうか。それでは日本の警察が引き取りに来るまでの間、市民は弁護士との接見、交通について無権利状態に置かれることになります。これは人権侵害そのものであり、この状態が放置されると米軍基地内に拘束された市民の安全は保てません。
今回、私が長時間にわたり米軍基地内に拘束されたことで、これまで顕在化しないできた問題が浮き彫りになったのではないでしょうか。米軍基地内に拘束された市民は、日本の警察が引き取りに来るまでの間、どのような形で日本国憲法に保障された権利が行使できるのか。米軍は拘束した市民にその権利をどう保障するのか。司法の場できちんと議論、検証、判断し、米軍基地内で日本の市民が無権利状態に置かれないようにすべきです。
現在の日本の政治、司法の在り方は、アメリカ合衆国に対し過剰に従属的であり、市民の人権保障よりも米軍に対する配慮を優先しているように見えます。刑事特別法12条2項で緊急逮捕の対象について、罪種の制限を設けていない問題の根本にもそれがあります。どうして米軍にそこまで慮り、特権を与えないといけないのでしょうか。米軍のためにあえて二重基準を作り、市民をより厳しく取り締まることによって、市民の人権を制限することはもうやめるべきです。この問題についても、司法の場できちんと議論、検証し、判断してください。
先の敗戦からすでに74年が経過しようとしています。にもかかわらず、日本はいまだにアメリカ合衆国への従属意識から抜け出せないままです。そのうえで、日米安全保障条約に基づく基地提供義務の負担の多くを沖縄に押しつけています。そのために沖縄県民が被ってきた犠牲は計り知れません。
米兵にレイプされ、殺害された女性たち。米軍機の事故によって死んだ子どもたち。戦後の沖縄の歴史をたどれば、米軍基地があるゆえに犠牲になった沖縄人の苦しみと悲しみが、血の文字で刻まれています。
それは過去のことだけではなく、現在においてもそうです。県知事選挙や国政選挙、県民投票で繰り返し辺野古新基地建設反対の民意を示しても、日本政府は工事を強行し続けています。沖縄には民主主義は適用されないのか。沖縄は憲法番外地なのか。そのような怒りの声が沖縄の中に渦巻いています。
日本にとって沖縄とは何なのでしょうか。日本全体の安全と平和のために犠牲にしていい「捨て石」なのでしょうか。辺野古新基地建設が強行されなければ、私がカヌーに乗って海に出ることもなかったし、米軍基地内に拘束されることもなかったでしょう。私がこうやって法廷の場に立つこともありませんでした。
すべては沖縄に過剰な米軍基地を押しつけ、「負担軽減」どころか新たな基地を建設している日本政府の強硬な姿勢、沖縄への差別政策がもたらしているのです。沖縄で生活している者は、いつ、どこで米軍がらみの事件、事故に巻き込まれるかわからない生活を強いられています。そういう地域で生きざるを得ない市民の権利を守るものとして、日本の司法が機能することを願ってやみません。
以上、引用終わり。
裁判のあと、明日からの3連休中に海上行動写真展が開かれる喫茶「ゆかるひ」に行った。辺野古の海、大浦湾の生物や海上行動の写真を張る作業が行われていた。無料でもらえるポストカードも5種類ある。
「ゆかるひ」の場所は国際通りの県庁近く、ローソンそばの路地を入ってすぐの角にあるYAKAビルの3階である。2階には国際旅行社が入っていて、向かいには南条喜久子バレー教室がある。食事もできるので、ぜひ多くの人に足を運んでほしい。