23日は天候悪化のため海上行動が中止となったので、宜野湾市長選挙の応援に行った。宜野湾市在住のカヌーチームの皆さんが中心となっている事務所を訪ね、午後から市内を車で周りながら街頭演説を行った。この日は沖縄も風が強く、寒さが厳しかったが、午後8時前のぎりぎりまでみな頑張っていた。
名護市民の立場からということで、両市民とも選挙のたびに何度も踏み絵を踏まされていること、辺野古の海・大浦湾では海底ボーリング調査さえいまだ終わらず工事が大きく遅れていること、「県内移設」にこだわっている限り普天間基地の返還は進まないこと、寒さが厳しい今日もキャンプ・シュワーブのゲート前では多くの市民が座り込み、沖縄戦を体験したお年寄りたちが子や孫の世代に戦争と基地の被害をくり返させないため頑張っていることなどを伝え、宜野湾市民と名護市民が協力して1日も早い普天間基地の返還を実現しようと訴えた。
久しぶりに琉球大学の前を訪ねた。30数年前、私が在学中に琉大が首里キャンパスから西原キャンパスに移転した。首里と西原の両方でキャンパス生活を送り、男子寮も龍潭池の畔にあった古い療と真新しい個室の寮の両方で暮らした。サークル室を確保するための当局交渉や新キャンパスでの初めての琉大祭など、移転時の苦労もあったが、新旧両方のキャンパス体験は貴重だった。
当時はまだ琉大の前を高速自動車道も通っていなくて、周りにはサトウキビ畑やススキ、銀ネムの野原が広がっていた。大学周辺の様子は大きく変わったが、変わらないのは普天間基地の存在だ。SACO合意から20年余が経っても普天間基地が動かなかったのは、すでに米軍基地が集中している沖縄の中で「移設」場所を見つけようとしたことにあるのは自明である。
ジノーンチュもナグ・ヤンバルンチュも同じウチナンチューであり、ウチナンチュー同士で基地を押し付け合う構図を作り出している日本政府・安倍政権の罠にはまってはならない。ウチナンチューを分断し、対立させて、いつまでも米軍基地の負担をおしつけようとする日本政府に、宜野湾市民はきっぱりと拒否の意思を示してほしい。