23日(日)は沖縄戦慰霊の日で、供え物や線香などを準備してお昼頃、本部町の八重岳にある三中学徒之碑に行って手を合わせた。
私の父も三中の鉄血勤皇隊の一員として、八重岳で米軍と戦っている。
伊江島に上陸する米軍を攻撃するため、大砲を八重岳に運び上げたが、一発も撃たなかった。一発撃ったら百発返ってくるのだから、撃つことはできなかった、と話していた。
私の祖父は避難した今帰仁の山から、伊江島周辺の米艦船に突っ込む特攻機の様子を見ていた。
ほとんど撃墜されたが、一機が米艦船に体当たりし、黒煙が上がって船が沈むのを目にして、山にいたみんなで万歳三唱をしたと話していた。
しかし、大半の特攻機は奄美諸島上空で待ち伏せしている米軍機に撃墜され、沖縄までたどり着くこと自体が困難だったのが現実である。
三中学徒之碑の近くには国頭支隊の本部壕と病院壕跡があり、毎年ここでも供え物をして線香をあげ手を合わせている。
1945年4月16日、伊江島に米軍が上陸したあと国頭支隊は羽地の多野岳に敗走している。
その際、歩けない負傷兵は手榴弾を渡され、この地で自決を強いられている。
今は枯れている小川のそばには、壕や掘っ立て小屋を建てた石垣が残っている。
ふだんはスズムシソウが茂っているのでコノハチョウが多い。
置き去りにされた兵士たちは、どのような思いで命を絶っていったのか。
子どもや妻、両親、兄弟姉妹、恋人などのことを思いながら手榴弾を爆発させ兵士たちの無念さを想像すること。
そういう努力を続けたい。
午後は名護市に移動し、和魂の碑と少年五経隊之碑を訪ね、手を合わせた。
和魂の碑は戦後60年の年に最後の慰霊祭が行われたようだが、今では遺族も高齢化して沖縄まで来られる人はほとんどいないのだろう。
少年護郷隊の碑には、亡くなった隊員の遺族が手を合わせに来ていた。
親に連れらて来た子どもたちは、教科書で学ぶより何倍も深く沖縄戦について学び、考えるだろう。