以下の文章は2020年1月1日発行の『思想運動』1048号に掲載されたものです。
昨年の十月三十一日に首里城が炎上した。朝、起きてテレビをつけると、燃え盛る首里城の映像が流れ、すぐには現実のことと思えなかった。火災が沖縄県民に与えた衝撃の大きさは言うまでもなく、正殿ほかの消失を嘆くとともに再建を願う声が湧き上がるのは理解できる。だが、直後から県内メディアが行い始めた「再建キャンペーン」には、違和感を覚えた。
火災の原因も明らかになっておらず、国や県、管理団体の責任も問われていない段階で、再建を望む声が大々的に取り上げられ、募金が開始された。そして、首里城が沖縄のアイデンティティを象徴するものであり、それを再建することが沖縄の誇りや自立を取り戻すものであるかのような言説が飛び交った。県内メディアが率先してそれを煽っているように私には見えた。
しかし、報道機関がまず行うべきは、火災の原因を究明し、なぜ初期消火を失敗したのか、国や県、管理団体にはどのような責任があるのか、を追及すべきではないのか。再建議論はそれがなされたあとに行うべきではないか。私はそう考えたのだが、沖縄のメディアは事実の追求よりも、再建キャンペーンに力を入れているように見え、私の気持ちはどんどん冷めていった。
首里城が沖縄のアイデンティティを象徴する、などという発想は私にはかけらもない。私は沖縄島北部の今帰仁村という所で生まれ育ったが、そこには今帰仁城(なちじんぐしく)という城がある。十四世紀から十五世紀前半、沖縄島は北山、中山、南山の三勢力に分かれていて、今帰仁城は北山の拠点だった。しかし、一四一六年に北山は中山に滅ぼされ、「三山統一」がなされる。つまり、今帰仁側から見ると、中山(浦添のち首里)は自らを滅ぼした支配勢力でしかない。
同じことは奄美や宮古、八重山、与那国にも言える。各地域に武力侵攻し、支配下に置くことで琉球国は勢力を拡大していった。支配された側はその歴史を忘れないし、その地域に生まれ育った者は、琉球王朝の栄華や首里城に関しても、一定の距離を置いて眺めるのが普通だろう。
私にとっても城と言えば真っ先に思うのは今帰仁城であり、首里城には再建されてから一度しか行ったことがない。北山を滅ぼした首里城に行く気などしなかったが、知識として必要なので見に行ったというだけのことだ。私にとっては首里城よりも、学生時代を過ごした琉大首里キャンパスの方が、はるかに思いは深い。
今帰仁城に関しても、野面積みによって築かれた城壁の曲線と背後の山や海の眺めを美しいとは思うが、それ以上に心に湧く感情は、城を築くために駆り出された民百姓がどれだけの苦役を強いられたか、山上にこれだけの石を積むためにどれだけの苦労と犠牲を強いられたか、という同情であり、権力が持つ理不尽さへの不快感である。
首里城だって同じだ。そこには当時の琉球国が持つ財力や技術、文化などの最高水準が投入されたのだろうが、同時にまた、それを築くために哀れをさせられた民百姓がいたはずなのだ。王だの貴族だの侍だのが威張り散らす下で、搾取や強制労働に泣き、飢えに苦しんだ者たちへの想像力を欠いて、何がアイデンティティだ、何が再建だと思う。
今回の火災にしても、首里城祭りという観光イベントを優先する一方で、スプリンクラーや煙探知機などの基本的な防火施設さえなかったずさんな管理の結果ではないか。国や県、管理団体の責任は問わずに、日本政府主導で再建議論が進められ、玉城県政もそれに追随している。その馴れ合いの裏で、辺野古への土砂投入が強行され続けている。
沖縄の新聞は辺野古新基地建設について、ツイッターを転載する程度の記事しか載せていない。沖縄のメディアが辺野古新基地問題に熱心に取り組んでいると考えるのは錯覚でしかない。ただでさえ後退していた取材姿勢が、首里城炎上と再建問題に記者を集中させることで、さらに悪化している。日本政府は笑っているだろう。