Quantcast
Channel: 海鳴りの島から
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2937

10・10空襲から75年目の羽地内海とワルミ

$
0
0

 土砂を運搬するガット船や陸揚げ用のランプウェイ台船が羽地内海に避難しているため、10日(木)の海上行動は休みとなった。いろいろ作業をしないといけないので今帰仁に向かったが、途中の羽地内海を見ると辺野古で使用されている船が並んでいた。

 先週は金曜日の半日と土曜日、今週は月曜日の半日程度しか土砂の陸揚げ、埋め立て工事が行えていない。台風に振り回されて9月以降、ガット船とランプウェイ台船は羽地内海への避難をくり返し、埋め立て工事は遅々として進んでいないのが実情だ。

 風が強まりつつある羽地内海の浅瀬で、シラサギが60羽ほど羽を休めていた。

 リカリカワルミ・橋の駅から運天港方面を眺める。1945年10月10日の米軍による空襲では、運天港も攻撃を受けた。運天港には当時、日本海軍の魚雷艇部隊や特殊潜航艇・蛟龍の部隊が配置されていて、標的となったのだ。

 ハンセン病療養所の愛楽園をはじめ、周辺の集落も被害を受ける。私の母は当時、屋我地島に住んでいた。ワルミや羽地内海には日本軍の艦船がたくさんあり、米軍の攻撃を受けていたことを話していた。

 写真の左側が今帰仁村の運天で、右側が名護市の屋我地になる。間の海をワルミというが、米軍占領後、運天から屋我地に数名の米兵が泳いできて、集落の女性を連れ去っていった。連れていかれた女性は翌朝帰ってきた、という話を母がしていた。その話をもとに「眼の奥の森」という小説を書いた。

 10・10空襲で米軍の攻撃は正確であり、日本軍は大きな被害を受ける。そのことが日本軍に、住民の中にスパイがいて米軍に情報を流しているのではないか、という不信感を生み出す。翌45年の4月早々に運天港の海軍部隊は壊滅し、陸戦隊に移行する。この海軍部隊が本部半島で住民虐殺を起こしている。10・10空襲で生まれた不信感が、住民虐殺につながったのではないか、と私は考えている。

 米軍の攻撃が正確だったのは、航空写真の分析に加えて、ペリーの琉球調査までさかのぼる資料調査や米国に移民した沖縄人からの聞き取りなど、沖縄の自然、地理、歴史、文化について徹底した調査・分析を行っていたからだ。情報の収集・分析において日本軍と米軍とでは大きな差があった。

 そのことを自覚しえない日本軍は、空襲による被害を沖縄人がスパイしたからだ、と責任転嫁し、それが住民虐殺につながった。自らの弱点を自覚し、反省する能力のない日本軍が、米軍に敗退するのは当然だった。

 ヤマトゥからくる皆さんには、沖縄の風景を眺めて、ああきれいだな、で終わるのではなく、そこにどういう歴史があるのかも、ぜひ学んでほしい。羽地内海に浮かぶ船がどういう作業をしているか、そのことも知ってほしい。米軍の沖縄攻撃から75年も経って、新たな米軍基地が造られようとしている。そのことの異常さを考えないといけない。 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2937

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>