6月23日(土)は沖縄戦慰霊の日で、北部の慰霊の碑など数か所を回り手を合わせてきた。
桜祭で有名な本部町・八重岳の頂上に近い坂道の途中、伊江島を望む場所に「三中学徒之碑」がある。道路の向かいにある真部山で戦った県立三中(現名護高校)の生徒たちの慰霊碑である。
戦後70年にあたる2015年を最後に、この碑の前で行なわれてきた慰霊祭は幕を閉じた。主催してきた元学徒の皆さんが高齢化し、継続が難しくなったためである。現在、元学徒の皆さんは名護高校の校内にある南燈慰霊之塔の慰霊祭に参加している。
それでも、この地を訪れて花やお菓子、飲み物をうさぎて、線香をあげる遺族や元学徒の皆さんがいる。この碑ができた理由でもあるが、兄や弟、学友が戦った真部山のそばで手を合わせたい、という思いが強いのだ。
眼下の本部の街から聞こえるサイレンを合図に、午後12時に遺族の皆さんと黙とうをした。うさんでーをいただき、来年も会いましょうね、と声をかけてくれた遺族の皆さんを見送って、車で沖縄県主催の「沖縄戦全戦没者追悼式」の実況中継を見た。
その後、近くにある「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ねた。慰霊の日の前になると草が刈られ、きれいに掃除されるが、訪ねる人は少ないと思う。なごらん女子学徒隊の皆さんが看護にあたった場所であり、重症患者が置き去りにされて自決を強いられた場所である。
コノハチョウが舞う森の斜面には壕の入り口が残り、石が積まれ整地された場所も複数ある。73年前、この地で起こったことを想像しながら、森に向かって線香をあげ、手を合わせた。
午後3時頃、名護小学校の南側高台にある「少年護郷隊之碑」を訪ねて、慰霊祭に参加した。北部地域で生まれ育った者なら、護郷隊という名称を耳にしたり、話を聞いたことがある者は、私の世代くらいまでは少なくないと思う。
しかし、沖縄の中でも実態を知らない人は多いだろう。そもそも、沖縄戦については中南部の激戦地について視線が注がれがちで、北部の戦場、戦闘について関心を向ける人は少ない。この数年、護教隊が注目され、沖縄戦研究者やジャーナリストによってドキュメンタリーや本が作られているので、これから広く知られていくだろう。
ただ、いまの時代風潮からすると、陸軍中野学校出身の将校たちと少年たちの殉国美談として取り上げる者が出てくる危険性もある。日本軍の指揮下で少年たちが何をしたか。やんばるのお年寄りから私が聞いた話の中には、きれいごとではすまされない話もある。
私の父が三中生として真部山に動員されたのは14歳の時だ。学徒隊といい護郷隊といい、14、5歳の少年たちを戦闘に参加させる時点で、すでに日本軍は軍隊の態をなしていないのだ。にもかかわらず、敗北が必至の戦場に少年たちを送り込み、いたずらに死なせ、戦後に及ぶ苦労を負わせたのだ。
それを強いた国家、昭和天皇、政治家、軍人、官僚たちの責任が追及され、指弾されなければならない。もし、戦場に動員されなければ違った人生があったのに…。
最後に名護岳にある「和球の碑」(にぎたまのひ)を訪ねた。北部地域で戦った球7071部隊の生存者が建てた碑である。元兵士たちの高齢化により、戦後60年の年を最後に慰霊祭を閉じている。今は6月23日に花束を供えられているだけなので、酒や線香をあげ、かたわらに咲くアカバナーを供えてきた。
当時20歳だった兵士もすでに93歳だ。どれだけの人が存命なのだろうか。もう一度沖縄を訪ねて、戦友が倒れた場所で手を合わせたい、と思う人もいるだろう。以前、沖縄で戦った元日本兵の方に話を聞いた時、最後に「あの世に行ったら、見捨てていった仲間に詫びを言いたい」と涙声で語っていた姿を思い出す。
こういう島に、新たな軍事基地を造らせてはいけない。基地があるからこそ戦場になる。軍隊は住民を守らない。下っ端の兵士達もまた、無惨な姿で死んでいくのだ。